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生き霊 実話怪談 (前編) CW

割引あり

主な登場人物

語り部:Kitsune-Kaidan

私:Kitsune-Kaidan
オーナー兼シェアメイト:トルーディ
カフェの店員:デブラ
デブラの娘:ケリー
オーナーの愛犬:オリバー
ホストファミリーの娘:ホープ
友人
トルーディのパートナー
同級生
強盗A
強盗B
天窓の男

はじめに

生霊(いきりょう、しょうりょう、せいれい、いきすだま)とは、生きている人間の霊魂が体外に出て自由に動き回るといわれているもの。

対語として死霊がある。

人間の霊(魂)は自由に体から抜け出すという事象は古来より人々の間で信じられており、多くの生霊の話が文学作品や伝承資料に残されている。広辞苑によれば、生霊は生きている人の怨霊で祟りをするものとされているが、実際には怨み以外の理由で他者に憑く話もあり、死の間際の人間の霊が生霊となって動き回ったり、親しい者に逢いに行ったりするといった事例も見られる。

Wikipedia 生霊

みなさんは、生き霊を見たことはありますか?私がこれまで体験してきた霊体験の中で、「生き霊」と称される霊には、非常に奇妙な感覚を覚えます。当然ながら、これは個人的な見解に過ぎませんが、亡くなった人びとの霊や幽霊のようなお化けたちと比較して、生き霊の姿は鮮やかに見えます。そして何よりも、生き霊の意思は比較的明確だと感じます。成仏できずに悲嘆にくれて彷徨う霊魂たちよりも、私は生き霊の存在の方が、はるかに恐ろしいものと感じています。できることなら生き霊を見たくはありません。しかし、依然として時おり姿を現します。生きている体から離れ、私たちに訴えかけるための生き霊の思いとは、いったいどのような現象なのでしょうか。

私がこれから語る怪談は、生き霊として現れた者が、他者に向けられた妬み、恨み、そして嫉みに満ちあふれた感情を、語り部である私(Kitsune-Kaidan)が目撃し、証人となり、そして解明することになった話です。なぜ、その生き霊は私の前に姿を現したのか?その答えを知るまでに、多くの時間がかかりました。海外での生活がもたらす予期せぬ、恐ろしいアクシデントと共に、怪談話は進んでいきます。

以前にもお話ししたことがありますが、実話怪談というものは、予測不能な驚きに満ちた展開や結末を約束することはできません。しかし、実話だからこそのリアリティーとゾクゾク感は、きっとお伝えすることができると思います。それでは、不気味な世界へとつながる扉をお開けください。どうぞお気をつけて、行ってらっしゃいませ。

突然の引っ越し

部屋の前でドアを開けたまま、私は呆然と立ち尽くしていた。オーストラリアのタスマニア島を一周するバスツアーを終え、シドニーに戻ってきた。背負ったままの重いバックパックと部屋の鍵を手にしたまま、ドアの向こうに広がる光景を見つめていた。見つめるというよりも、何が起こっているのかを理解できず、ただ立ち尽くしていたと言った方が適切かもしれない。コーヒーのいい香りが漂ってきた。

突然、バタバタと駆け寄ってくる足音が耳に届いた。私はゆっくりと後ろを振り返った。そこにはいつもはクールなカフェの店員、デブラが息を切らして立っていた。私は何が起こっているのか理解できず、彼女の長いスカートを見つめながら、つぶやくように言った。

「ああ、デブラ」

デブラは真っ赤な顔をくしゃくしゃにして、今にも泣き出しそうな顔をして、申し訳なさそうにこう言った。

「ごめんなさい…」

「えっ?」

私はなぜデブラが謝るのか理解できず、聞き返した。いつ見てもきれいに整えられたピンクのボブヘアーと眉毛の上で短く切りそろえられた前髪が、初めて乱れているのが、何とも印象的だった。

「本当にごめんなさい。あなたの部屋はもうないの」

デブラが泣きそうな顔をしている理由も、私の部屋が空っぽになっている意味も、全く理解できない私は、こう返すのが精一杯だった。

「はっ?」

「とにかく、ごめんなさい。あなたの荷物は別のアパートに全部運び出したの。大変だったのよ。色々あってね…。私たち、もう時期クビよ」

「あなたに連絡しようと思ったんだけど、本当に急で…」

どこで息つぎをしているのか疑問になるほど、立て続けに理由を教えてくれるデブラに向かって、私はこう言った。

「どういうことか、詳しく教えてもらっていい?」

デブラはかすかに聞こえてくるカフェの様子をチラチラと気にしながら、ようやく事情を説明し始めた。事の発端はこうである。私が間借りしている部屋のオーナー兼シェアメイトであるトルーディは、実は長期にわたり、この建物と建物内にあるカフェの権利を巡って裁判に巻き込まれていたのだそうだ。そしてついに裁判の判決が下り、トルーディが全面的に敗訴し、すべての権利を失ったとのこと。どうりで全く見慣れない年配のアジア人女性がカフェで働いているわけだ。

デブラがずっと焦っているのとは裏腹に、私はなぜかずいぶんと落ち着いていた。動揺は全くない代わりに、旅の疲れがどっと襲ってくる感覚がした。『あまりにショックなできごとに遭遇すると、かえって妙に冷静になる』とよく人は言う。だが、私の場合はデブラが言う『大変だった』という理由を知っていたから驚かないのであろう。知っていたと言うよりは、知らされていたと言った方がこの場合は正解だろう。

「デブラたちは解雇になるの?」

ケリーという人


デブラの下の娘のケリーは、心のリハビリを兼ねて母親のデブラと一緒にカフェで働いている。初めてケリーに会った時、彼女は不安な様子で私に挨拶してきた。人と目を合わせるのも、接客も苦手だから、カフェで働けるかどうかが心配だと言っていた。私は彼女の優しい声に惹かれて、すぐに打ち解けることができた。

ある日、ケリーが髪を坊主にして真っ赤に染め、重たそうなボディピアスを鼻と耳につけて中庭に現れた。勉強の休憩中の私といつものように偶然でくわした。ケリーはドラッグをやめる代わりにマリファナを吸っていた。リハビリのプログラムは退屈だと言っていた。

「新しいヘアスタイルと、ボディーピアスかわいいね」

私がそう言うと、ケリーは恥ずかしそうに微笑んだ。中庭の狭いスペースにマリファナのにおいが漂っていた。私は彼女が吐き出す煙をぼーっと眺めていた。マリファナの香りは、お茶屋の外を歩いている時の香りとよく似ている。

「どうなるかまだギリギリよ。あの子はこれから職探しよ…」

「そうなんだ…」

私は自分の荷物がいったいどこにあるかも検討がつかない上に、スーツケースも何もかも見当たらない。キョロキョロしている私に気がついたデブラは、

「ケリーが今からあなたの新しいアパートを案内するから、安心して。店に戻らなきゃ。寂しくなるわね」

デブラはそう言いながら、私にハグをしてカフェにそそくさと戻って行った。彼女の長いスカートが後から彼女を追いかけていくように見えた。

もう一度、部屋を見まわした。備え付けのベッド、チェスト、テレビ、机と椅子も全て消え去っているのが不気味だった。目の前には、あのクローゼットと使用できない暖炉だけがこちらを見つめているようだった。念のためにクローゼットを確認したが、私のものは何ひとつとして残っていなかった。

部屋を出たところにある2階へと続く何度も上り下りしてきた階段が、前よりも真っ黒に見えた。まるで2階が遥か遠くにあるかのように、恐ろしく黒い渦巻きがこちらを見下ろしているように感じられた。もう2度とこの階段を登ることはないのだと思った。オリバーのいないこの家は恐ろしすぎる。なぜか私が証人となり、この家にまつわる秘密を知らなければならなかった因縁を感じた。


「本当にごめんね」

ケリーはデブラとそっくりな顔をして、泣きそうな小さな声でそう言った。

「ケリーのせいじゃないよ」

私は、自分の中に全く怒りが湧いてこないことに驚いていた。普通なら、賃貸契約をしている相手に、自分の不在中に勝手に荷物を運び出されていたら怒り狂っても不思議ではないだろう。ただ、私は事の経緯を『知っている』せいか、『タスマニア島で起こったできごと』に、いまだに感化されているからか、冷静だった。ケリーやデブラに怒りをぶつけても仕方ないとも思っていた。彼女たちもある意味被害者だ。

「ていうか、トルーディはどこ?」

私は冷静に尋ねた。

「当分の間、ブルーマウンテンズとアパートを行ったり来たりするみたい」

トルーディは、パートナーと一緒にブルーマウンテンズに別荘を買って、ゆくゆくは移住する計画を以前から私に教えてくれていた。ブルー・マウンテンズは、シドニーから2時間程度のところにある観光名所だ。ジャミソン渓谷と3つの奇岩が連なる『スリーシスターズ』が絶景スポットである。

「オリバーは?」

「ブルー・マウンテンズにいるよ」

オリバーとはトルーディの愛犬で、私の護身のようなかわいいオス犬だ。トリミングを滅多にされることのないオリバーは、つぶらな瞳が毛むくじゃらの白い毛の奥に見え隠れしている。仕事と勉強で疲れ果てていた私の身に起こる不気味なできごとをなんとか乗り越えられたのは、オリバーのおかげといっても過言ではない。

(これからオリバーのいない生活が始まるんだ)

私は不安だった。

「それにしても、すごい荷物だったでしょ?」

という私の顔を見ながら、ケリーは黙って大きくうなずいた。寒がりの私はオーストラリアの冬の寒さに耐えられず、日本から追加で送ってもらった厚手のコートが数着あった。当時の私はドクターマーチンやジョージコックスの重たい靴を好んではいていた。勉強もしていたので分厚い本や辞書が何冊もあった。ケリーとデブラで歩いてあれだけの荷物を運んだと聞いて、申し訳なく思った。

「癖が出ないように必死だったよ。あなたの持ち物、私の好みだから」

「とくに、あの黄色いヤツ。欲求との戦いだったよ」

ケリーは笑いながらそう言ったが、私には深刻な顔に見えた。ケリーはドラッグのリハビリと同時にクレプトマニア(窃盗症)の症状とも戦っている最中だったのだ。『黄色いヤツ』とはマーケットで買った、キラキラしているスタッズのついた黄色のブレスレットのことだ。今はアクセサリーをほとんどつけないが、当時の私は好んでしていた。ケリーはもしかすると本当は何かを盗んだのかも知れない。でも、私は疑わないことにした。


道路を渡ると、角のプールバーからは昼間からビールをあおる男性たちが、大きく開いた入り口のドア越しにビリヤードを楽しんでいる姿がうかがえる。ビリヤードを楽しむ男たちの前に、ぼんやりとした黒い影が立っているのに気がついた。その影は少しずつ男性の姿をおびて、私と目があった瞬間、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。ケリーはまったくその存在に気づいていないようだった。

ポーキーと呼ばれるスロットマシンの軽快な音も聞こえてくる。ポーキーマシンにはちょっとしたいい思い出がある。私は全くと言っていいほど、ギャンブルには興味がない。競馬、スロット、パチンコ、競艇…。そういった類に私の心は惹かれない。カジノに対しても特別な思い入れはないが、友人たちが行くというので、特になんの期待もせずに同行した日のことだ。

友人たちはそれぞれが慣れた手つきでカードゲームやルーレットなどに熱中していた。興味のない私は、豪華なインテリアやディーラーたちの手さばきをただ興味本位で眺めていた。真剣にメモをとってデータを分析している観光客らしき人たちも多くいた。ディーラーのテクニックを見抜くことなど、素人の私にはできるはずもなく、次第に退屈さが募っていった。

友人に勧められ、日本のスロットマシンに似ていて比較的簡単だというポーキーマシンをやってみることにした。ポーキーはスロットマシンと基本的に同じなのだが、ボタンを押すと自動的に運命が決まる。目打ちと言われるような技術はまったく必要ない。ただ、お金をかけて座り、ボタンを押すだけである。


ポーキーマシン

私は友人たちとは離れて一人ポーキーマシンのコーナーにいた。初めのうちは、真新しい絵柄を見るのが楽しかったが、やがてそれも飽きてきた。周囲をキョロキョロと見まわし、ギャンブルに興じる人々の様子に気を取られていた。突然、天井のライトが輝きはじめ、軽快な音楽と共にそのライトがキラキラと点滅しだした。

(なんか光って、うるさいな)

隣に座っている中国人観光客らしき男性が、私に向かって何かを中国語で話かけてきた。私は英語で挨拶を返したが、その男性はポーキーを指差し、何かを教えてくれようとしているようだ。私は中国語が理解できないことを申し訳なく思いつつも彼の言葉に耳を傾けていると、その男性が、

「ジャックポット!ジャックポット!」

その男性は大声で叫び出した。彼の仲間らしき人たちも集まってきて、私に向かって何かを伝えようとしている。残念ながらその言葉を私には理解できなかったが、状況から何かが起こっていることは把握できた。すると、天井でキラキラと光るうるさいライトが、私のポーキーマシンめがけて突然落ちてきた。中国人男性たちは、私に向かって親指を向けて示した。

(なんか当たったのかな)

ジャックポットというシステムについては、私は何の知識も持ち合わせていなかった。どうしたらよいのかわからないので、友人に電話をかけることにした。私の状況を見た友人は驚きの表情を浮かべていた。そんなわけで、私は何もわからずに大金を手に入れた。そのおかげで、ずっと行きたかった専門学校に行けることになった。生活が苦しかった私にとって、まさに天からの恵みのようだった。

そんなことを思い出しながら、プールバーの角を曲がった。バーの中からは相変わらずポーキーマシンのボタンを打つ音が鳴り響いている。ポーキーをする男性客の背後に、ピッタリとあの黒い影の男がくっついてる。よく見ると、その黒い影は男性客に耳打ちをして何かを伝えている。男性客はまったく気がつかずにポーキーに熱中している。あの男性客は今晩笑うのだろうか…。カフェから歩いて数ブロック先にそのアパートはあった。


(最悪…)

目の前にそびえ立つそのアパートは、見るからに不気味だった。今までトルーディ、オリバー、そして私の三人だけで自由気ままに暮らしてきた。カフェは午後4時か5時には閉店する。トルーディが2階に上がってしまえば、1階は私だけになる。オリバーが私の部屋に遊びにくるが、一人でゆっくり夕食を作ったり、テレビを見たり、勉強に没頭できた。今、目の前にあるアパートは、明らかに多くの住人がいそうな建物だった。トルーディから、もう一つのアパートは人の入れ替わりが激しく賑やかだと聞いたことがあった。

ケリーは鍵を開けると、重たいドアを力一杯開けた。

ギーッ。

ケリーは私の荷物を運ぶために何往復もしたことで、アパートの構造を熟知しているようで、どんどん先に進んでいった。中は薄暗く、静寂に包まれていた。4階建てのアパートの階段をぐるぐると登って一番上まで行く。私たちはようやく4階にたどり着き、ケリーが左側の部屋のドアを開けた。

(何これ…)

「ごめんね…。ぐちゃぐちゃでしょ。急いで運んだから…」

彼女は早口で説明して、鍵を私の手に押し付けるように渡し、逃げるように帰っていった。


「最悪」

おそらく倉庫として使われていたのだろう。部屋の中には備品や古びた荷物が散乱していた。私のスーツケースらしきものや、私物があちこちに散らばっていた。旅から帰ってきた日に、こんなにも混沌とした部屋を片付けるなんて、頭がおかしくなりそうだった。部屋の外でドアが閉まる音がした。

バタン。

(隣の部屋の人かな?)

4階には反対の右側にもう一つドアがあった。おそらくその部屋の人が帰宅したのだろう。部屋を見ていると気が遠くなりそうなので、とりあえず建物の散策をすることにした。すると突然、窓際に女性が立っているのが目の端に映った。

(えっ?)

再び目を向けると、もうそこには誰もいなかった。ただ乱雑に椅子や棚、雑貨が転がっているだけだった。誰かが隠れていてもおかしくないくらい汚い部屋だったので、とりあえず部屋の中の安全を確かめることにした。これは私の一人暮らしの習慣でもある。帰宅すると、まず陰になっている場所やトイレ、物置など死角になっている場所をチェックするのだ。一通り確認してから、私はようやく安心してくつろぐ事ができるのである。

(やっぱり気のせいかな)

誰の姿もないことを確かめると、早速下の階に降りてみた。4階と同じように左右に分かれており、ドアが2つある。2階にはシャワー室とトイレがあるようだ。一体何人住んでいるのかはわからないが、シャワー室の数は2つだった。さっき登ってきた階段を降りると、廊下になっていて突き当たりが玄関だ。玄関の左手にはリビングルームがあり、大きなソファーがある。もう一度、廊下に出て玄関とは反対の奥に進むとキッチンがある。キッチンの横には小さなテラスがあり、そこから見える景色は隣の家の壁だけだった。ゴミが散乱していて安らげるような場所ではなかった。

(あれ?)

視線を感じた。あたりを見回してみたが、特に誰の姿も見あたらない。私は諦めてキッチンへと戻った。

(魅力のないアパートだな)

(それにしても、誰もいないのかな)

その夜は疲れ果てていたので、近くのスーパーで軽食を買って、誰にも会わずに部屋の中で食事をとって、そのまま眠りにつくことにした。

深夜、私を覗き込む目線を感じて目が覚めた。ハッとした。目が覚めて驚いたのは、誰かが覗き込んでいる気配がしたからではない。一瞬自分のいる場所がどこなのか理解できなかったからだ。乱雑に転がった備品や雑貨の山に囲まれて寝ていた自分が気の毒に思えた。

(起きたら、片付けなくちゃ)

誰かが覗き込んできた気配など無視して、そのままぐっすり眠った。

どのくらい眠ったのかは、思い出せない。カーテンのかかっていない大きな窓があるにもかかわらず、朝日の光はまったく入らないその部屋は薄暗かった。窓の方までなんとか荷物をかき分けてたどり着いた。

今まで暮らしていた家とは数ブロックしか離れていないのに、突然知らない遠く離れた町に放り出されたような気がしていた。孤独というよりは、空虚な感じがして、虚無感が私を包み込むようだった。時計を確かめると、もうすでに昼を回っていた。隣の住人とはまだ出会っていない。住人と挨拶をした方がいいと思い、一階のリビングやキッチンに降りてみたが、誰の姿もなかった。

バタン。

(あっ、上に誰かいるんだな)

私は昨日買っておいたパンで軽い朝食を作り、ブラックティーを飲んだ。カフェから聞こえてくるエスプレッソマシンの音と、コーヒーの粉を捨てるガンガンガンという音、オリバーが階段からものすごい勢いで降りてくる音、トルーディが大声で電話をしている声、隣のヒッピー軍団の音楽の音が、突然懐かしく感じた。

(この家にはなんの音もしない)

明らかに大きなサイズの建物で、何部屋もあるのに、全く生活感のある音がしない。ただ、静寂が漂っていた。

(オリバー元気かな?)

最後の方では、私がオリバーの散歩をするようになっていた。

バタン。

また、ドアが閉まる音がしたが、特に誰も降りてくる気配はない。

(さてと、日本にいる母親に住所が変わったことを知らせなくちゃ)

シャワーを浴びてから、また4階の部屋に戻った。

バタン。

またドアが閉まる音だけが、静まり返った建物に響いていた。私はふと、あの日のことを思い出していた。

家探し


日本からオーストラリアに来た当初の私は、現地の家族との交流や友達作りを心待ちにしていた。仕事を始める前に少しだけ学校に通い、数ヶ月間だけホストファミリーと共に生活していた。ありがたいことに、ホストマザーが仕事を紹介してくれたので、さすがに同じ職場で同じ家というのは窮屈な気がしたので、ダウンタウンに近い安くて便利な家を探していた。

(シェアメイトがたくさんいる家は苦手なんだよな…)

団体行動が好きな友人は、何人もの人が住むシェアハウスに住んでいる。一方、私は一人でゆっくりとした時間を過ごす空間がほしいと思っていたが、家賃の問題もある。2人か、せいぜい3人くらいのシェアメイトがいる家を探していたのだ。家探しにはコミュニティーセンターや紹介、不動産屋、学校などを通じて探す方法がある。私は数ヶ月の学校をすでに終えていたので、とりあえず住みたいエリアに行ってみることにした。

バスから降りた私は、ダウンタウンに近いお気に入りのエリアに足を踏み入れた。このエリアが好きな理由は、単にダウンタウンに近いだけではない。古着屋、バー、日本食レストラン、スーパー、本屋、レコード屋、カフェ、アパレルの路面店、雑貨屋、コインランドリー、映画館など、すべてのものが徒歩圏内にそろっていたのだ。そして、バス停や電車の駅も近くにあった。職場は少し遠いが、バスに乗って座っていれば簡単に到着できるという利便性も魅力的だった。ブランド物や流行の最先端よりも、私はサブカルチャーのファッションや音楽が大好きだった。そのため、このエリアは私にとっての大のお気に入りとなったのだろう。


バスを降りて辺りを散策し、特に目ぼしい情報も見当たらなかったので、カフェで一休みしようと考えていると、背が高くて髪の長いすらっとした黒人の女性と年配の男性がコミュニティーボードにチラシを貼っていた。彼女はにこやかに男性と話しながら作業を終え、手にはそのチラシを抱えて別の場所へと足早に歩いて行った。何気なくそのチラシに目をやると、

『シェアメイト募集』

私はしばらくその手書きのチラシを見つめていた。下の方に電話番号と名前が書いてあり、切り込みが入っていて、ちぎると持って帰られるようになっていた。私は迷わずに一枚ちぎり、ポケットに大事にしまった。カフェでアイスティーを飲みながらしばらく考えていた。

(あの女性の第一印象は良かったな)

私は直感で物事を決める習慣がある。それが良い結果をもたらすこともあれば、悪い結果につながることもある。携帯電話を手に取り、すぐに電話をかけた。明るい声の女性が出て、歓迎してくれた。

「あなたが一番のりよ!」

早速会う約束をして、後日家の下見にいくことにした。

「えっ!もう?」

友人が驚いている。友人は私よりひと足さきにホームスティ先を出てシェアハウスで暮らしているが、相性の悪いシェアメイトたちとの生活に苦戦している。

「家賃も週100ドルだし、好きなエリアなの。とりあえず、下見してくる」

友人は特に反対というわけではなく、私が家を見つける速さに驚いている様子だった。彼女は安い家賃を羨ましがっていた。相性が悪い上に高い家賃のシェアハウス先から、交通の便が悪く学校へは通いづらいと嘆いていた。シェアハウスやシェアメイトの契約は簡単な書面を交わす程度で大掛かりな規約や契約もないが、一方、何かあった場合や揉め事が起こった場合は厄介である。だからこそ安心して暮らせる場所の確保は大切だと思う。

下見


(フン、フン、フン♪)

お気に入りのエリアにやってきた私は気分がよかった。鼻歌を歌いながら軽快に歩いていた。いつもの道や店がさらに楽しそうに見えた。

(あそこのカフェに座って、本を読んで)

(あそこのコインランドリーにしようかな)

まだ家の下見も済ませていないというのに、私はすでに日々の暮らしの計画を練りはじめていた。

「あ、ここだ」

手に握りしめていた家の番号をもう一度確認して、ポケットにしまった。カフェのオープンテラスにいる客が私に向かってニコッと微笑んだ。私も微笑み返した。オープンテラスのデッキは左右にあって、約4卓のテーブル席がある。どの客もおしゃれで個性的だった。

いい雰囲気の音楽が中から流れてきた。エスプレッソマシンの音とコーヒーのいい香りが漂っていた。私はテラスの真ん中にある小さな階段を2、3段登って、開いているドアから中に入った。左右の席には、ところ狭しとユニークなおしゃれをした客が座って、コーヒーを飲んでいた。奥にはカウンターがあり、二人の女性が忙しそうに作業していた。以前見かけた長身の黒人女性が、笑顔で私に話しかけてきた。トルーディである。

「いらっしゃいませ」

「こんにちは。先日電話した者です」

少し緊張しながら私は言った。

「あー、あなたね!ちょっと待っててね」

トルーディは、緊張を吹き飛ばすかのように明るく向かい入れてくれ、デブラに私を紹介してくれた。

「デブラの作るカフェラテは、この辺りでナンバーワンよ」

デブラは忙しそうにコーヒーをいれながら、手を振ってくれた。トルーディは一段落すると、カフェの奥へと続く通路に私を手招きした。カフェを出るとすぐ、キッチンだった。こじんまりとした空間だが、シンクの上には窓があり、外の中庭が見える。

「あなたはこの冷蔵庫を使ってね。私はほとんど料理しないから自由に使ってもらってかまわないわよ」

本当にその通りで、トルーディが自分のためにキッチンを使っているのを見たのはたった一度きりだった。彼女は見事なミートパイを焼いていた。彼女は料理がとても上手で、カフェで提供するほとんどのスイーツや食べ物は彼女が作っていた。

キッチンを抜けると、先ほどキッチンの小窓から見えた小さな中庭が目に入った。左に曲がるとすぐ右側にこぢんまりとした白いドアがあった。トルーディがそのドアノブに手をかけた瞬間、ものすごい勢いで白い毛むくじゃらの何かが、こちらに向かって猛スピードで転げ落ちてきた。

「わあ!」

私は思わず声を上げた。

トルーディは、

「これはオリバー」

しっぽが高速で左右に揺れている。毛むくじゃらの奥にオリバーの小さな目が見えた。

(かわいい!)

家を決める際に「犬」が入っているのは好条件だ。この時点で心は既に決まってしまったのかもしれない。しかしその後、気づいた違和感や不思議な感覚には、心の中でモザイクをかけてしまったのかもしれない。複雑な気持ちを抱えながら、トルーディが開け放ったドアの中を覗き込んだ。


薄暗い小さな部屋の中には、一生懸命きれいに掃除したであろう形跡が見られた。左手に小さな机と椅子が置かれ、部屋の真ん中には小さな鉄柵のベッドがあった。ベッドの横には白い3段チェストがあった。奥の壁には飾りの暖炉があり、その左右にはクローゼットがある。ベッドの正面には小さな窓があり、目隠し用のレースの白いカーテンがかけられている。その窓からは先ほどの小さな中庭が見える。窓の左下には椅子が置かれ、その上には古びたテレビが置いてあった。

トルーディが説明を終える前に、私は一通り部屋を見終えてしまった。左側のクローゼットに違和感を感じたが、他に問題はなさそうだったので、見なかったことにしてしまった。しかしその後、違和感を無視したことを後悔することになるとは、この時は気づかずにいた。気づいたのに知らないふりをしていたのかもしれない。

「あっ、そうそう、この机の横のクローゼットはカフェの備品が入ってるの」

その時はあまり気にしていなかったが、そのクローゼットはなかなかの曲者だった。週末の夜遅くまで仕事をし、平日は午後からの学校があるため、朝はゆっくりとした時間を過ごしたかった。しかし、その望みは次第に崩れ去っていった。朝早く、デブラが焦ってノックしてくる。カフェの備品のペーパーカップをとりにやってくるのだ。最初は快く迎え入れていたが、やがて朝の大事な睡眠時間が妨げられるのが億劫になり、私はついにうち鍵をかけたまま無視してしまったこともあったのだ。

(前日のうちに、次の日の備品を用意してから帰ればいいのに…)

そんな文句を口に出せるはずもなく、私は気がついた時には備品のペーパーカップを夜のうちにカフェへ持って行き、カウンターに置いておくことにした。それでも、ときどき朝早く叩き起こされた。

部屋の下見の話に戻るが、次は2階部分の下見である。ふかふかした埃っぽい絨毯がひいてある古くて暗い階段をトルーディが先に登っていく。上を見上げると、なぜかものすごく長い階段に思えた。すると、突然毛むくじゃらのオリバーが私を押しのけてものすごい勢いで階段を駆け上っていった。私は思わず笑ってしまった。あっという間に一番上に辿り着いたオリバーが、こちらを見ている。『早く登っておいでよ』と言っているのか、『こっちに来ちゃダメだよ』と言っていたのかはわからない。

永遠にも感じた暗くて埃っぽい階段を登ると、広いスペースになっていた。ちょうど真下はカフェになる。小さなバルコニーがあり、椅子が置いてあった。2つ部屋があって左手はトルーディの寝室。右手はシャワーとトイレがあるバスルームだった。


「好きな時にいつでも使っていいからね」

(バスタブがないのは残念だな…)

とは言っても、タンクに貯まっている水を温めてお湯にするシステムのため、バスタブにゆっくり浸かるほどのお湯を一人で使ってしまうと、他の人がお湯を使えなくなってしまうのだ。寒い冬でも、多くの人が我慢してシャワーを使う。たまに我慢できずにお風呂につかってしまう日本人がいるが、それがシェアメイトともめる原因になってしまう人も少なくない。

私はこの時、妥協点を限界まで使っていたような気がする。ここで住むところを決めてしまわなければ、また振り出しに戻る。仕事が数日後にスタートする前に家を決めてしまいたい。引っ越しもしなければならない。週100ドル、日本円に換算すると月々約4万で家賃をおさえる場所を他に探すのも大変だろう。私はオリバーがいればそれでいいとすら思っていた。

「別のアパートもあるんだけど、そっちは今満杯なのよ」

「エンジェルっていう香港出身の子がいてね…。チャーミングで面白い子よ」

トルーディは、所有しているもう一つのアパートについても説明もしてくれた。あの強制的な引っ越しを突然強いられたアパートのことだ。話を聞く限りでは、多くの人が共同で住んでいるようだ。私はシェアメイトたちと上手くやっていく自信がないので、こちらを選ぶことにした。こちらの方が自由気ままで、心地良さそうだ。

「すぐに引っ越してきてもいいですか?」

トルーディによれば、アジア人は部屋をきれいに使ってくれるので、大歓迎だそうだ。私はすぐに2週間分の家賃を支払い、それと引き換えに簡単な契約書と領収書を手渡された。足元では始終オリバーが嬉しそうにしっぽを振り動き回っていた。モップのようでとてもかわいらしかった。私はその時、意識的に左側を見ないようにしていた。なぜ、見なかったのか…。今さら後悔しても仕方ない。とにかく、その時の私はそこに住む必要があったのだ。再び暗い階段を降りて、左手にある自分の部屋をもう一度チラッと見た。

(うん?)

何か黒いものが動いた気がしたが、私の足はすでに前へ進んでいた。小さなキッチンを抜け、再びカフェに戻った。相変わらず、おしゃれな人々と心地よい音楽に包まれていた。デブラとトルーディに軽く挨拶をして、カフェの外に出た。ふと、2階の窓を見上げると、小さな出窓から誰かが覗いている気がした。だが再び見ると、そこにはもう誰もいなかった。

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