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サイクル くるくる

サイクルというものは昔からなんか興味持っていて、自然のサイクルとかなんかそういった見えないけどあるんだろうなーとは思っていて。
四季もある意味見えてるけど見えないサイクルのように思うし、食物連鎖も1つのサイクルなんかなーとか思ってみたり。

最近のマイブームは天体。どこかのサイトで 春分 - 夏至 - 秋分 - 冬至 のサイクルについて書かれてるのを読み、ふと考えてみたりした。

春分 昼夜ほぼ同じ長さになる日 3/21頃
夏至 昼が一番長くなる日 6/21頃
秋分 昼夜ほぼ同じ長さになる日 9/23頃
冬至 昼が一番短くなる日 12/22頃

「頃」はその年の暦で(?)前後したりするかららしいのだけど、そこら辺はまぁ適当に。
これをサイクル的に見ると

春分 サイクルの始まり
夏至 始めた事をピークに持っていく頃
秋分 始めた事の収穫を楽しむ&分配
冬至 新しいサイクルの準備

となるらしい。 ふーん。

春分(3月) のお陽さまが昼夜同じになる時に新しい何かのサイクルが始まって
夏至(6月) のお陽さまが一番長い時にそれが盛り上がって
秋分(9月) のお陽さまがまた昼夜同じになる時に、その始まった何かの実りを楽しみつつみんなに分けてもっと楽しくなって
冬至(12月) のお陽さまが一番当たらない時に、今までのサイクルを振り返りつつ静かに次の新しいサイクルの準備を始める


って事なのね。 ほぉー。

お陽さま(太陽)は、地球上で生きてく上ですべてのものに欠かせないもので、すべてのものに平等に降り注いでいて。
星読み的には、「太陽」という星はその人のメインを現す星座だと捉えられていて、よく雑誌とかに載っている占いなんかは、その人の「太陽星座」で占われていて、あまり興味ない人でも自分が何座なのか位は知ってるだろうけど、それは太陽星座の事らしい。

その人の「メイン」って事は、
その人本来の自分 と考える事もできて。
本来の自分 = 太陽
ならば、その「太陽」が降り注ぐ割合が変わる事で区切られてる4つのサイクルも、何らかしらの関係あってもおかしくないよなーと思えてくる。

昼と夜、太陽の割合が変わる事で区切られている 春分 - 夏至 - 秋分 - 冬至 のサイクル。

太陽 = 本来の自分 で、
その「本来の自分」の割合が変わる4つのサイクル。



春分 は昼夜同じだから、真ん中。今回のサイクルでスポットを当てる「本来の自分」はフラットな状態であり、サイクルの始まりの頃
夏至 は昼が長いから、「本来の自分」がやや頑張ってたり生き生きしてたりする頃
秋分 も昼夜同じだけど、活発だった「本来の自分」がいったん落ち着いて、それまでの活動の実りを楽しむとき
冬至 は昼が短いから、そのサイクルでスポット当ててきた「本来の自分」が落ち着いてきたり腑に落とせたりして、じゃあ次の新しいサイクルでは「本来の自分」のどの部分を楽しもうかと準備するとき


って考える事も出来るのねー。

サイクルは毎年来て、くるくる繰り返される。
なら、「本来の自分」は1つじゃなくても、「その時」の本来の自分だと感じることだったり、もっとやわらかく言えば、その時の「一番自分らしいなー、心地よいな~」と感じることが「本来の自分」って事にしてもよさげじゃなかろーか。
だって毎年来るんだし。
人なんてどんどん変わるもんだし。

あぁそうだ、思い出した。
なんでこの4つのサイクルにアンテナ立ったかと言うと、始まりの「春分(3月)」を見て、そう言えば私がこのnote始めたのはその頃じゃなかったっけかと思ったからだった。
3月から私はnoteを始めた。
その少し前から、なんとなくその時の自分に違和感感じ始めて模索してた時に、人に勧められて始めたnoteが3月からだった。
そうだ、それで「なんですとー? いつの間にかサイクルとやらに乗ってたんですかいな!」とちょっと驚き、そのサイクルに自分を当てはめてみたんだった。

noteはそれまで何処にも出してこなかった「私の言葉」を出すために設けた場だった。
ネットはそれまで見るものと思ってたもんだから、きょろきょろしながらも楽しくやって来ていたが、サイクルに当てはまるとするならば「私の言葉を出す場」として「本来の自分」の一面を出した今回のサイクルはもう実りを迎える時であり、その味わいを楽しんでる頃となる。 さてどうだろか。

実際この6ヶ月間で私はものすごく変化してきている。6ヶ月前には想像すらしなかったほどに。
その変化は始めた当初の「ちょっと自分の中の本来の声を言葉に現したら、私はどんなになるんだろう」という軽ーい気持ちと興味をはるかに飛び越え、いまの私が現れている。
変化のスピードもそれ迄とは比べものにならないくらい速く、それは私自身もとりまく環境もどんどん日々変わっていく。
その変化を実感しているし、それを「実り」とするならば、思ってもみなかった「実り」を味わってることになる。お腹いっぱいに。

そうであるならば。
ならば、この「秋分」を越え今回の「ちょっと自分の中の本来の声を言葉に現したら、私はどんなになるんだろう」で始まった私のひとつのサイクルはもうすぐ満了となる。
そして次の新しいサイクルの準備を始めるらしい。
「次の新しいサイクル」といっても、6ヶ月前の私からは想像だにしなかった「私」からまた紡ぎ出される「新しいサイクル」なわけで、
そんなのは多分「6ヶ月前の私」ではまったく展開されない「本来の自分」の中のひとコマがこれから観れるようになるんだろう。
きっと。 よくわからないけど。
だって「サイクル」だとそうなるし。

「サイクル」と言ったって要は春夏秋冬を別のアレンジで楽しむ方法で、それは自然の動植物たちは当たり前に繰り返してることで。
あたりまえに。 粛々と。
あちらこちらで書いてるけども、私は人間も自然の一部だと感じており。
動植物たちのように あたりまえに粛々と は直ぐには難しいとしても、その自然サイクルの一部として変化を感じるのは「そうなのかもね」で 春分 - 夏至 - 秋分 - 冬至 のサイクルを改めて感じてみるのも面白いんじゃないのかなーと思う。

明日(9/22)は秋分の日。
今回のサイクルでスポット当てた「本来の自分」の一面は満ち、これから暮れの冬至(12/21)へ向けて、その「満ちた新たな本来の自分」からまた何をスタートさせたいか と思い巡らせゆっくり観るとき。


始まる ということは 終わる ということ。
終わる ということは 始まる ということ。

なんとも楽しい。
どんな自分が観れるのか。
どんな自分に出逢えるのか。
「知らない」ということは無限の可能性が秘められている。
「知らない」ということは
「知らない」事を知っている ということ。
「知らない自分がいる」ということを
知っている ということ。


こんなに愉しいことはない。

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