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Lost Autumn|短編小説


黄色が舞う、くるくると。そして、私の体を通り過ぎていく。銀杏の黄色はほとんどが地面に伏して冬の来訪を濃やかに知らせている。いつの間にか、するりと滑り落ちた秋の記憶を辿るけれど、生活に一生懸命でひと匙の花鳥風月すら愉しむことができなかった、と思いながら道を行く。さらさらと乾燥した風が頭にぶつかると、それは私の前髪ですこし遊んで流れた。

いいね、さっきの風。

ふいに遠景からあのひとの声が聞こえた気がした。その姿も声も曖昧模糊に包まれているのに妙に生々しく蘇ると、風のように私の心をゆらす。そのゆれを抑えるように唾を呑み下して深呼吸をしたあと、心がちくちくとした。痛いでもなく、悲しいでもなく、ちくちくと居心地が悪いような、居場所が定まらないような感情が芽生え、そして、あのひとに触れられた手、腕、頬、髪、心──不確かな境界線をあの美しい指が確かにしていくような感覚に陥った。目の前では、さらさらと風が吹いて黄色い記憶の蓋をこじ開けていく。


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「コーヒー飲む?」

私は知らない部屋で椅子に座ると、なかなか落ちつかなかったので、何度か座り直していたら前からまたあのひとの声がした。

「コーヒーは、どうする?」

私は小さく頷きながら「うん、いただきます。」と返事をした。その落ち着かない椅子の上で視線を部屋のあちこちへ泳がせて体と心のバランスをとった。すると、あのひとはコーヒーの入ったマグカップを私に手渡しながら、横にある柔らかそうなソファーに深く深く腰掛けた。

「その、机の上にある写真集、それ欲しいんでしょ?あげるよ。」

テーブルの上には、たくさんの本が置いてあって、その一番上にモノクロームの写真集があった。私はマグカップをテーブルに置いて、それを手に取るころには椅子の座り心地の悪さは忘れていた。頁を捲ると、モノクロームの世界の中に花が剥き出して存在していた。その白と黒の陰翳が織りなす濃淡の境界線を指でなぞると、指の先がジンジンとした。そして、置いてあったマグカップを手に取り、それに唇をつけて少しずつ傾けながらコーヒーを体に入れた。熱いコーヒーは深煎りの豊かな香りがして、私の好みだった。軽やかな音楽が流れる空間で私の横で座るあのひとは、いろいろな話をしてくれた。

この街には歯科医院が12軒あること。

本場のインド料理店のスパイスのこと。

ときどき、ベランダへ猫がやってくること。

それを聞きながら私は、「そうなんだ。」とか「うん、うん。」と頷きながら、頭の半分では別のことを考えていた。

飼っている愛猫のこと。

この前観た映画のこと。

そして、

となりに座るあのひとのこと。

すこし冷めたコーヒーをカラダへ入れてから「そういえばさ──」と、どうでもいいような話を続けたけれど、私は急に居心地が悪くなり「もうそろそろ帰ろうかな。」と言うと、あのひとにそっと手を握られた。私はその熱い体温で意識がハッとなり、彼と目を合わせた。どうしたらいいのかわからずにいたら、あのひとはその美しい指で、私の手、腕、頬、髪、心──不確かな境界線を確かにしていくように触れた。それは先程、私がモノクロームの写真の陰翳の境界線をなぞるような行為と似ていた。

「きみはうつくしい。このまま時間が止まってくれたらいいのに。」

あのひとはそうつぶやいたあと、やさしくキスをした。私は今日といういちにちの終わりにあのひとと一緒にいたいと思った。すると、ベランダから見える黄色がはらはらと風にゆれてくるくると舞っていた。それは刹那と永遠がくるくると舞っているように、とても嫋やかで甘美な瞬間だった。美しい重力に従い落ちる黄色──。そのときに、私はあのひとと共有したいのは、この先の未来ではなくて一瞬の永遠だと、思った。私たちはうまくはいかないだろう、そう思える要素はたくさんあったけれど、私はこのちくちくとした胸の疼きに素直に従うことにして、私はその日家に帰らなかった。

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しゃらしゃらと音を立てながら舞う黄色は、美しくて、眩しくて、瞬いていた。それはあの頃の青いふたりを思い出したからかもしれない。もう若くない私は、あの頃の刹那と永遠に黄色い蓋をして、失われた秋を思いながら煙草に火をつけた。








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