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Feel Blue|短編小説


 ひどく静かな夜だった。それは、しじまとはすこし違い、ナーバスな聴覚と視覚が生み出す静かさだ。緊張した空間へ不機嫌なため息は熟れた果実となり、清の口から滴り落ちる。

「はあ、鳴海はどうして──」

その先の言葉は、意味をなくして空気へ気化した。私は、気持ちを伝える気力さえ削がれて、忙しなく動く清の口をただ見ていた。すると、清は

「話、聞いてんの?」

と、乾いた口調で問いただしたあと、私の返事も待たずに「あー、イラつく。今日はホテルで泊まるから。」と、言うなり脱いだジャケットを持ち寝室へ移動し、そのあとすこしして玄関のドアの開閉音が聞こえた。

バタン

私は、静寂が蠢く四角い部屋の中で、そっと椅子へ腰掛けると、座面には清の体温が落とし物のように残っていた。すると、頭の中で昔の清の声が囁いた。

「親鳥はさ、ああやって交互にたまごを温めるんだよ。」

嬉しそうに話しをした清の笑顔も一緒に蘇る。いま私は、あの親鳥のように清からバトンを受け継いで、たまごを温めているような気分になった。すると、携帯がブルッと震えたから「清?」と思って確認すると、友達の恵子からだった。

時間ある?Feel Blueで軽く飲まない?

私は、恵子へいまから家を出ることを伝えて、椅子から腰を上げた。そして、それに未練がましい熱い視線を投げかけて、玄関のドアを大袈裟にバタンと閉じ、家をあとにした。

 コートのポケットへ手を突っ込んで冬を避けるように歩くと、澄んだ夜が頬に優しく当たる。ふと、左側の路地を見ると、闇夜の手前でねこが毛繕いをしていた。そこは、喧騒の中に静寂が滲んでいて、立派な体躯のねこだけが品よくそこにいた。よく見ると、ねこのお腹は膨らんでいる。私はなぜか携帯を取り出してその空間を撮影した。

カシャ

シャッター音でこちらの存在に気がついたねこは、ゆっくりと立ち上がり、大きなお腹を揺らしながら路地の向こうにある闇夜へ姿を消した。私は見えもしないのにその闇夜をすこし眺めて、近くのバー『Feel Blue』へ向かった。

 到着すると、カウンターの奥の席で恵子が私に気付いた様子で「こっちこっち。」と、手を振った。私はマスターに会釈してからコートを脱いでハンガーへ掛けて、恵子の隣の椅子へ腰掛けた。その椅子の座面はとても冷たくて先ほどの清の温もりをぽつりと思い出した。

「飲み物なんにする?」

恵子が訊ねてくれたので私はマスターに「じゃあ、ビールをお願いします。」と伝えた。すると、すぐにビールがスマートなグラスに注がれてやってきたので、恵子とお淑やかに乾杯をして飲んだ。

「ご主人は、奥さんが外出しても大丈夫なの?」

と、恵子はワイングラスの飲み口を指で拭いながら訊ねるから私は、清とのことを話した。まず諍いになる原因は子どもだった。このまま仕事に邁進したい私と、結婚して三年が経過して、そろそろ子どもが欲しい清と、意見の不一致が続いていることを話した。すると、恵子は

「結婚てさ、一年まではいいのよ。何しても新鮮だしね。けど、一年越したら"あきらめ"が出てくるわけ。結婚って所詮、悲しい"あきらめ"の連続なのよ。ご主人があきらめるか、鳴海があきらめるか、そうしないと、私みたいになるよ。」

恵子は、赤い唇を尖らせてそう言ってからワイングラスを軽く回した。恵子は昨年、離婚して、いまはひとりで悠々自適な生活を送っている。

「結婚に向いてなかったんだよね。」

恵子はそう言ってからワインをひと口飲んで、赤い口紅がついたグラスの飲み口をまた指で拭った。そして、私を見てからゆっくり微笑んだ。

「私はさ、たまご焼きから関係性が狂ったのよ。」

「たまご焼き?」

「そう、たまご焼き。朝食に焼くでしょ、たまごを。私は早起きして甲斐甲斐しくご飯炊いてさ、たまご焼きを作るわけ。それでね、テーブルにきれいに並べてさ、できる妻を主人に見せつけたのよ。そうしたらさ、主人は、そのたまご焼きをひと口食べたあとに、"なんでたまご焼き甘くないの?次から甘く焼いて。"だって。まず最初は、朝食を用意してくれてありがとうでしょ?その瞬間に恋は盲目だと気がついたし、このひととはわかり合えないだろうな、と思ったの。私はその次の日からたまご焼きじゃなくて目玉焼きを作るようになったし、結局、一度も理解し合うことなく別れたけど。よく続いたわよ、三年半も。」

恵子はそう言ったあとにチーズを食べた。そして、私にもチーズを勧める仕草をしてから

「子どもかあ──」

と、つぶやいてワインを飲み干した。私は、恵子が酔っているように見えたから「大丈夫?」と声をかけると、恵子は「エヘヘ。明日休みだから飲みすぎてる。でもまだ大丈夫だよ。ありがと。」と、言ってマスターにワインを頼んだ。トクトクトクと音を立てながら注がれるワインにうっとりする恵子の横顔は、温かい光と翳が折り重なり、とても美しかった。額から鼻にかけての緩やかな稜線、自己を主張する眉毛、長いまつ毛に覆われた眼、そして、魅惑的な唇。私は同性でありながら、それらを礼賛したくなるほど、見惚れてしまう。そして、素直にその様を「美しい。」と言葉にしても、恵子は「そんなことない。」と、謙遜するだろうと思ったから、黙ったままビールを飲んでゆっくりと味わってから

「清を好きか嫌いかで訊かれたら好きなの。けど、いまは会話もなくて──前はよく会話してたのよ、何気ない会話。鳥の子育てのこととか、街にいるねこのこととか、どれもあったかい記憶になってるの。私ね、コミュニケーションってさ、そこで終わってしまうものだけど、実はひとつの絵みたいに記憶の枠に入っているものだと思うの。それであとになって、あんなこともあったな、と振り返ってみたりして、いい思い出になっていくと思うのね。でも、いまの私たちは、イヤな記憶しか残ってないの。憂鬱だわ。」

口から垂れる乾いた愚痴をこぼしたあとにビールを飲み干し、恵子が飲んでいるワインを頼んで、ナッツを口に運んだ。薄暗い店内を軽く見回すと、客は私たちと若いカップルだけで、その隙間を『Autumn Leaves』が柔らかく流れていた。それがこの空間を外の喧騒から遮断していることは確かだった。ぽつりと灯る明かりに私たちの翳は長く伸びて、コンクリートの壁は小さく瞬く。それを眺めていると、いまこの世界の半分は翳なんだと思うと、心が安らかになるような気がして、私の悩みなんて、ちっぽけだとも思う。私はカウンターに肘をついて頸に手を当てると冷えた指先に反応して体が縮んだ。すると、あの清の体温を思い出した。温かい忘れ物。

「私も今後のキャリアを失いたくなくて、どこか意地を張ってたけど、子どものこと、考えてみようかな。」

「うん、子どものことは、自然の流れに任せてみるのもいいと思うよ。選択肢はその時々で必ずあるからさ、自分に最良の選択をチョイスすればいいのよ。」

「うん、そうしてみる。愚痴を聞いてくれてありがとね。」

私はそう言ってから恵子のワイングラスに乾杯して、ワインをひと口飲んだ。

 それからは、大学の頃の話をした。上京して不安だった私に優しく声をかけてくれた恵子。田舎者同士で話が合い、すぐ仲良くなった。その足で、東京タワーを見に行こう、と言い合い行くと、その足元で見上げる高い高いタワーに圧倒された。そしてそこで、私たちはこの街で生きていくんだ、と決心した。

「あれがさ、私らの青春だよね。」

「うん、あれは青春だよ。」

あの頃を思い出すと、きらきらして眩しすぎるくらい純だった。恋をして、それをなくして、泣いたり慰めたりしながら、生きてきた。いろいろなものが形を変化させながら進んでいくけれど、これからも私たちの関係は変わらないだろうと思う。

 私たちは、いい気分になるまで呑んで、バーをあとにした。

「ちょっと、帰りに東京タワー寄ろうよ。」

恵子は下手くそなスキップしながら言うから、私も真似してスキップしながら「いいねえ。」と、返事をして冬の澄んだ空気にふたつの笑い声が反響した。











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