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3月11日から10年に思うこと。幼少期に聞いた津波経験。

みなさま、こんにちは!

会社のnoteは更新を続けていましたが、個人noteは更新がとまっていました。久しぶりに書くタイミングを探っていましたが、今日は個人的な思いのある1日でもあるので書きたいと思います。

3月11日は多くの方がご存じの通り、東日本大震災の日です。私はその当時、大学生で大学のキャンパスでPCを触っていました。14時46分頃、長い横揺れの後に経験した事がないような強い揺れを感じました。

大学のあった東京都文京区は5弱だったようです。


私は地震火山学については興味関心のある分野でしたので、2日前の地震から宮城県沖地震の本震が起きたのかなと思いました。数年前から宮城県沖の地震がくるというのは報道では言われておりましたので。

電車がとまり大学時代の友人と当時住んでいた大宮まで帰ろうしました。池袋の老朽化したビルのガラスが割れていたり、道路に地割れが起きていた箇所もありました。池袋まで歩いて家族から「学校の避難所で一夜を過ごしてごしい」という連絡があり、友人と別れて校舎に戻りました。

その後は先輩の家や校舎で一夜を過ごしました。朝になり地下鉄南北線が動き出したので、東川口まで乗車して武蔵野線経由で帰宅した事を覚えています。

東北地方の地震というと東日本大震災をイメージする方も多いと思いますが、これまで何度も地震が発生した地域でもあります。

私は父母ともに秋田県出身で私も小学生まで秋田県で生活していました。東日本大震災も多くの記憶に残る方もいると思いますが、秋田県出身の人のなかには日本海中部地震という地震が記憶にある人もいると思います。

ここに書くかは悩みましたが後世に伝えるという事で今日は書きたいと思います。

私は2つ下に妹がいるのですが、妹の小学生の時の担任の先生が男鹿半島で児童引率中に日本海中部地震の津波で被災しました。お弁当を食べているときに津波がやってきたそうです。妹の話が事実であれば妹の担任の先生は津波の経験を経て15年後も小学校の先生を続けていたようです。津波の被災の経験を子どもに伝える事を使命感に持ち先生を続けていたのかもしれません。

後年、私の叔父がその小学校で校長を務めて慰霊祭を行っている様子も報道されていました。

秋田県では5月26日は県民防災の日という形で、毎年避難訓練が行われています。私の父や母(2013年他界)からも当時の体験談はよく聞いていました。母の実家は秋田県男鹿市にありますが、仏壇が倒れて近くの海岸線まで津波が到来しました。祖母(2020年他界)の家にはその当時の特集本があります。

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日本海中部地震の体験した私の3親等以内の親戚も2009年~2020年の間で5人すでに他界しているので語れる範囲で伝えていきたいと思います。

私にとって震災から10年は上記にように母や祖母や親せきもなくなり、私自身の仕事も様々な会社を渡り歩くというキャリアになりました。その当時バイトしていた仲間が続々と大手に決まるなか、私はなかなかスムーズに決まらず、20代は多くの人へ「心配される」という苦しい場面も多い10年間だったのかなと思います。

先日もTwitterで思わずつぶやきましたがバイトの同期が私以外結婚する形になり、どうしようもない!と開き直っていましたが…

ただ私は自分の歩んできた10年に後悔はしていません。同期と比較するともしかすると不器用な生き方をしているのかもしれませんが、自分しか得られない経験もしていますし、最近は多くの経営者の方と話す機会も増えて仕事の充実感も得ている印象もあります。

10年前のバイトではリーダーみたいなポジションでしたので、SNSでメンバーが活躍して結婚する姿をしてなにか役に立てたらと良かったらと思う日々です。

自らの人生を大切に、使命は何かという事も意識して東日本大震災からの10年目のnoteとしたいと思います。


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