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エッセイ「少年の祈り」

春先の、やっと緑が色づき始めた頃、
私は埼玉県の大宮にある氷川神社へ参拝した。
目的は、自身初となる書籍出版の成功祈願である。

五年の歳月をかけた童話本の執筆。自分が出来る事は全てやった。
他に思い付くのは神頼み位だ。
無事何事もなく、出版が成功するよう、神様に祈ろうと考えた。

この神社には、竜神がいるという噂がある。
竜に向かって書籍出版の成功を祈るというのも、社会的現実と幻想が混在しているようで、少々気おくれしたが、それでも祈りは祈り、堂々と参拝した。

社の前で、私の後ろに親子が一組並んでいた。
まだ少し風が寒い季節にも関わらず、半そで短パンの元気な男の子連れ。

私は、後ろがつっかえているのを感じて、自分の祈りを手早く済ませようと思い、手を合わせ、目の前にいるであろう竜神に向かってこう祈った。
「私の出版が無事、成功しますように」
私がそう心の中で祈った矢先、後ろの男の子が空に向かい大声で叫んだ。
「じいちゃんが生き返りますように!」
なんと純粋な祈りであろうか。
ハッとして、つい振り返りそうになってしまった。
「それは神様でも無理なの」
と男の子は母親にたしなめられ、父親はそれを見て笑っていた。
何とも微笑ましく温かい光景であった。しかしその祈りの真っすぐな事。
神様も、つい少年のおじいちゃんを生き返らせてしまうのではないかとすら思った。

そして途端に、私は恥ずかしくなった。
少年と自分の祈りの内容を比較してしまったのである。
私のものは大人の事情が諸々と絡んでいるが、少年の祈りは、亡くなった祖父にもう一度会いたい、その一心から放たれたものだ。健やかで美しいと感じた。

しかし、人の願う心は比べるものではない。
千人いれば千の心あり。
私の祈りも数ある祈りの内のただ一つに過ぎないのだ。

私はそのように、心の中でひっそりと、自分の祈りと自身を正当化し、擁護し始めていた。私の祈りも一つの祈りだ、少年の健気な言葉に気を取られつつもそう考え直し、手早く祈りを済ませた。

一口に祈りといっても、様々な境遇の人間がいる。
私の祈りも、多くの人に書籍を通して感動や本に込めたテーマを届けたい、という純粋な気持ちが含まれている。なになに、意外と私も健気ではないか。

そもそも、祈りの内容を比較してしまった事から、心の中でこの些細な葛藤が生まれてしまったのだ。何事も簡単に比べるものではないな、と一つ学びを得た。

気持ちよく参拝を終えた帰り、大きな鳥居を振り返って見た。
夕焼けと朱色が激しく混じり、まるで空が吠えているように見えた。


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