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近世長崎点描  シリコンバレーと二枚腰

長崎は今日も雨だった

港町の地名にはロマンチックな響きがある。
日本列島の北から順に、函館、横浜、神戸、そして長崎。

メロドラマの舞台としても、外国人居住地があり異文化の香りもあって、港町はそれぞれにイメージが良い。人や文化の新しい出会いが生まれる気配がそこにはある。

昔から長崎は、香港、モナコと並ぶ、世界で最も美しい夜景を誇る港の一つと称されており、ここを舞台にして色々なロマンスが生まれたかもしれない。

私にとって長崎といえば「長崎は今日も雨だった」(1969)の歌謡曲。子供の頃、ボーカル前川清のマネをして意味も分からずに口ずさんでいた。

「あなたひとりにかけた恋 愛の言葉を信じたの  ♪ ~ 行けど切ない石だたみ ああ長崎は今日も雨だった  ♪」

幼い頃、私の長崎の印象は、かなわぬ恋と石畳、そして、雨の街だった。

実際にこの地に足を踏み入れたのは、中学校の修学旅行と大学生の時。
キリシタン受難の歴史を辿り、平和公園を訪れ、被爆の歴史を学んだ。
そして、山の上にあるグラバー邸から眺めた長崎港の美しい光景が強く印象に残っている。

その後、残念ながら長崎に行く機会はなく、夢の中で何度か、港の景色がリフレインされるだけだった。

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マダム・バタフライと『沈黙』

外国人にとって長崎といえばもちろん被爆地としてその名前を知る人は多いだろう。

オペラ好きの外国人には、プッチーニ作のオペラ『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』(1904)の舞台が長崎だと思っている人も少なくないだろう。アメリカ海軍士官のピンカートンと日本人の「芸者」蝶々さんとの悲恋の話。舞台設定も主人公も、グラバー邸とその住人がモデルではないかという説は受け入れやすい。異国趣味のストーリーに個人的な感情移入は難しいが、作品自体は根強い人気で繰り返し演じられているようだ。

そして、近年、外国の若い人にとって長崎でイメージを膨らますのはイギリスの作家、カズオ・イシグロの存在であり、遠藤周作の小説『沈黙』(1966)からであろう。

2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロは5歳までを長崎で過ごした。彼の初期の作品『遠い山並みの光』(1982)、『浮世の画家』(1986)はいずれも彼の想像上の長崎が題材になっている。イシグロ・ファンがこの地を見逃すはずはない。

そして、数年前に、マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙-サイレンス-』(2016)がリリースされた。監督が数十年来温めていた企画であったこと、また、日本では窪塚洋介の出演もあり、話題となった。映画の原作は世界10数か国語に翻訳されている遠藤周作の小説だ。小説と映画の効果で長崎は外国でも知名度が高まったかもしれない。ちなみに、長崎駅から車で約40分、小説の舞台となった海岸の地に遠藤周作文学館がある。

尚、日本の若い人にとって長崎といえばテーマパークのハウステンポスが有名だろう。歌手の福山雅治がこの地の出身だと知るファンも少なくないに違いない。

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長崎はどこ?

さて、長崎市は九州の西に位置し、博多から特急で約2時間の距離のところにある。長崎駅にまもなく着くという頃には視界が急に開け、海が見えてくる。途中、電車は大小の入り江を蛇行しながら進み、山あいには小さな集落が見え、狭い平地にはきれいに田植えを終えた棚田が並ぶ。入り江と里山の風景が目に優しく映る。

長崎駅に着くと新築のホームと駅舎が目を引く。駅前には広大な更地が広がり、大規模な開発が進行中だ。長崎県が地元の企業、ジャパネットたかたの関連かと思ったが、JR九州が23年の完成を目指して駅ビルと複合施設を建設中とのことだった。また、22年秋には九州新幹線 西九州ルートの開通も見込まれ、博多から見ると長崎がより近くなる。

長崎県全体の地図を言葉で説明するのは難しい。長崎市から海を隔てて西に五島列島があり、北に壱岐・対馬が位置する。陸側の中心には大村湾があり、そこから南東へ島原半島、南西に長崎半島が伸びている。外海に面する西の海岸沿いには数多くの岬や入り江が点在しており、主要な港として北に平戸があり、南に長崎がある。

ちなみに、ジャパネットたかたの本社も、ハウステンポスも長崎市内ではなく、大村湾の北側、佐世保市にある。湾の南側に位置する長崎市の反対側で距離もかなりある。長崎駅に到着してからまじまじと県全体の地図を眺めることになった。

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「肥前(長崎県・佐賀県)は海岸線が皺ばんで、大小の入江が多い。中世ともなると、肥前の浦々は海賊の巣窟になったといっていい。そのあと、中世末期に、世界史における大航海時代が勃興してくると、これらの浦々は紅毛南蛮の文化の受け入れ口になった。地図の中で肥前の島々や浦々をたどっていると、それらの地図が、単なる日本地図というよりも、世界史の色彩に重ね染めされているようにも感じられるのである。」
(『街道をゆく 11 肥前の諸街道』1979 司馬遼太郎)

16世紀、世界史上の大航海時代の波が九州の西岸にある長崎や平戸の岸に押し寄せた。
以来、黒船来航までの300年、長崎は日本の西洋文明受容の中心地となった。
今回、その歴史に触れてみたく、長崎を訪れた。

「鎖国」と「4つの口」

はじめに江戸時代、近世の日本をおさらいしておきたい。

この時代の日本を思い浮かべると「鎖国」の印象が一般的には強いのではないだろうか。
数百年に亘って国を閉ざしており、幕末に黒船が来て、急に外国に扉を開いたというイメージだ。

しかし、近年、実際には「4つの口(窓口)」、すなわち長崎、対馬、薩摩、松前を通して、江戸幕府は外国との交易や外交を行っており、「鎖国」という言葉で単純化できない、独自の国際関係を築いていた、という見方が歴史家の間では主流になっているようだ。

九州にある歴史博物館の幾つかに訪れてみると、どこも、この「4つの口」の話が枕詞のように最初の説明で出てくる。何分「4つの口」の中、3つの口が九州に位置しているわけだから当然といえばそうかもしれない。

江戸時代の日本は、この「4つの口」を通して、松前藩では蝦夷地や今のロシア沿海州と、薩摩は琉球と、対馬は朝鮮と、そして、長崎はヨーロッパ、中国と交易を行っていた。  

徳川幕府は、国を閉ざしていたわけでなく、その4つの窓口を通して国を開き、対外的な貿易と文物の流入、人の移動を管理していたわけである。

16世紀は、通商を通じて世界が一つの経済単位となる「世界システム」の生成期であり、今でいうグローバルな経済体制がこの時期に始まったと歴史家の間ではいわれている。

日本は、勃興するヨーロッパを中心とする世界システムに長崎を通して組み込まれていく。この点において「4つの口」の中でも、とりわけ長崎が占める重要性を、最初に強調しておきたい。

ヨーロッパの衝撃 ポルトガルとの100年 

まずは、16世紀、ヨーロッパと長崎が出会う最初の100年を見てみよう。

1543年、2人のポルトガル人が乗った唐船が、種子島に漂着し鉄砲が伝わるのはよく知られた史実だ。

そして、1549年、スペインのバスク出身で、イエズス会を創設したフランシスコ・ザビエル(1506-1552)が、鹿児島に到着し、日本にはじめてキリスト教をもたらす。彼は、2年あまりの日本での布教活動の後、中国の地で客死した。

1550年には、早くも宣教師を乗せたポルトガル船が平戸に来航している。
大名らは彼らを歓迎し、土地を提供、布教に協力した。

やがて、長崎の西海岸沿いは、教会が立ち並び、学校が建設され、キリスト教文化が浸透していく。

そして、1571年、長崎に港が開かれ、ポルトガル船の寄港地となった。ちなみに、今年は長崎開港450周年にあたる年である。

さて、ポルトガル船の来航目的は貿易と布教だ。

九州では、大村純忠、大友宗麟、有馬晴信らの有力大名がカトリックに改宗し、貿易に乗り出し、域内で力を増した。1582年には、天正遣欧少年使節団の4人の若者がヨーロッパに派遣され、現地で歓迎を受け、8年後に帰国したことも付記しておきたい。

この時期、宣教師や商人らがもたらした西洋の文物は、鉄砲、地球儀、銅版画、眼鏡、西洋楽器などの品目。また、天文学や地理学、航海術、印刷術、医学などの知識も伝えられた。

珍しいヨーロッパの学術や文化の最新情報がはじめて日本に入ってきたわけである。

そして、安土桃山時代(1573-1603)には、スペイン、ポルトガルの影響を受け、南蛮文化が花開いた。絵師の狩野派が南蛮屏風を手掛け、カルタやパン、カステラなどの品物が一般にも知られるようになった。

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この時代、織田信長や豊臣秀吉も当初はキリスト教や南蛮貿易に対しては受入れの姿勢だった。彼らは宣教師や貿易商人と接見し、新しい物や情報を取り入れた。

しかし、キリスト教信者が九州だけでなく、大阪、京都、堺を含む全国で急増する中で(当時の日本の人口約1500万人の2%、信者数は30万人を超えたと見られている)、国内各地や近海で宗教や貿易上のトラブルが多発する。信者と住民との対立が起こり、漂着船の処理を巡ってはスペインと幕府は対立する。こうして、秀吉は国内の統制強化と外国の影響力排除のために、キリスト教の布教禁止の措置を取ることになった。

また、徳川幕府も当初、南蛮貿易、キリスト教布教に関しては容認の姿勢を示していた。

しかし、次第に態度を硬化させ、1613年に、全国キリスト教禁止令を発布。教会の破壊と布教の禁止、外国人宣教師の国外追放を行い、キリスト教の弾圧に転じた。

更に、1637年、島原・天草の一揆が発生。長崎ではキリシタン受難の歴史が続いた。
1639年にはポルトガル人も追放され、キリシタン大名も九州から消えることになる。

遠藤周作の『沈黙』で描かれた歴史の舞台が現実に進行することになった。

1543年のポルトガル人の漂着から、1639年のポルトガル人追放まで、およそ100年の間、キリスト教の伝来、南蛮文化の開花から、国内外の緊張とキリスト教の弾圧へと、一気に時計の針は逆回りした。

キリスト教文化の中心地として、長崎は天国と地獄を経験した。日本全体にとっても、この100年は、ヨーロッパとの衝撃的な邂逅となった。

17世紀に入り、ヨーロッパの域内では旧教国のスペイン、ポルトガルが衰退し、新教国のオランダ、イギリスが勢力を増していく。アジアにおいても新教国が旧教国を駆逐し、植民地の拡大を図っていた。

そして、日本との交易で、ポルトガルの後釜につくのはオランダだった。

オランダが新しいパートナー 

オランダと日本との出会いは、1600年にオランダ船リーフデ号が豊後に漂着したときに遡る。

当時、ヨーロッパの船が日本に到達するには困難を極めていたようだ。リーフデ号もかなりの犠牲者を出していた。

オランダ船漂着の情報を耳にした徳川家康は直ちに乗組員らを江戸に呼び寄せる。家康がこの船の艦長をしていたイギリス人、ウイリアム・アダムズ(三浦按針 1564-1620)を重用した話は有名だ。按針は、母国の土を再び踏むことなく平戸の地で生涯を終えている。

さて、オランダの日本への関心は貿易ビジネスであり、ポルトガルのように布教ではない。

彼らは、徳川幕府に恭順の意を示し、1609年、平戸に商館を構え、後にそれを長崎へと移す。そして、幕府は、彼らを保護し、彼らとの交易を長崎に集約する。
こうして、1641年、長崎港で正式にオランダとの交易が始まることになる。

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長崎に着任したオランダ商館長は毎年、瀬戸内海の海路で大阪へ行き、その後、陸路を伝い江戸へ詣でていたようだ。幕府は商館長との面会を通じて、最新のヨーロッパの情報を仕入れていたに違いない。

オランダ貿易の担い手は世界で最初の株式会社といわれるオランダ東インド会社(VOC)である。彼らは国運を背負っていた。

VOCは、インドネシアのジャカルタに本拠を置き、ヨーロッパとの交易とアジアの域内貿易に従事していた。日本へは、生糸や絹織物を輸出し、日本からは銀や銅を持ち帰り、当初は莫大な利益を上げていたようだ。

16世紀から17世紀のヨーロッパは、絶対王政から市民革命へと移行する時代。域内の覇権争いはアジアや日本に波及し、九州の西岸、平戸や長崎の港にも投影されていた。

それゆえに司馬遼太郎が「それら(長崎)の地図が、単なる日本地図というよりも、世界史の色彩に重ね染めされているようにも感じられる」と語る理由があったわけである。

最終的に、日本がヨーロッパのパートナーとして選んだのはオランダだった。

出島とオランダ通詞

すでに触れたように、江戸幕府はオランダとの貿易を長崎のみに絞った。そして、その貿易の舞台となったのが「出島」(1641–1860年)である。

出島は人工島で、扇状の形をしている。あらためてそのサイズを見てみよう。

扇のタテの幅は70m、扇のヨコの上が220m、下が190mの長さとなる。面積としては1万5千平米の広さで意外に小ぶりである。尚、現在、同じ場所に、当時の出島の原寸大を復元した施設が出来ており、訪れることができる。

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出島には、商館長、商館員、館医、及び召使いなど、総勢で15人程度の小所帯が住んでいた。商館員もオランダ人だけでなく、ヨーロッパ各地から来ており、召使いもインドや中国などから来ていたようだ。

ちなみに、出島では、商館員は出島の外に出ることは許されていない。日本人の「オランダ通詞」や役人、商人、遊女のみが出島に出入りすることを許されていた。島には常時100名ほどの人が活動していたという。そして、商館員や館医の中には、日本に関心が高い学者のようなメンバーもいたようだ。後のシーボルトもその一人である。

この出島の役割を見るうえで、重要なのが先の「オランダ通詞」の存在である。

彼らは、通訳や貿易実務を主な業務としながら、商館員らを通して直接、ヨーロッパの学術を受け入れた最初の日本人である。彼らの中には、後に学者となり、蘭学を専門的に教える者まで現れたようだ。

日本は、出島という小さな窓口を通して200年に亘り、ヨーロッパの学術・文化を受け入れた。そして、その間、日本からもヨーロッパの王室を魅了する有田の陶磁器が数多く海を渡った史実も覚えておこう。

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蘭学、洋学のシリコンバレー? 

江戸時代の中期に入る徳川吉宗の時代は、キリスト教への警戒も和らぎ、ヨーロッパの文物を受容する関心も高まったようだ。幕府は1720年から洋書の輸入規制を緩和する。そして、青木昆陽や野呂元丈ら有力な学者を長崎へ派遣し蘭学を学ばせている。彼らは後に日本における蘭学の先駆者と呼ばれるようになった。

当時から、江戸、京都、大阪からはもちろん、全国各地の藩士や学者たちによる長崎遊学が始まっていて、その数もかなりに上ったようだ。ちなみに、各県単位での遊学者数が「長崎歴史博物館」には展示されている。

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蘭学とは、オランダ語を通じて西洋の学術・文化・技術を学ぶ学問のことをいう。語学を学びながら、オランダ通詞との会話や私塾を通して、学者たちはヨーロッパで最新の科学的知識を学んだものと思われる。

そして、最初の成果は、杉田玄白、前野良沢らが手掛けた日本で最初の西洋医学の翻訳書『解体新書』(1774)の刊行だ。その後、大槻玄沢、緒方洪庵をはじめ、多くの蘭学者が育ち、江戸や大坂で蘭学塾が栄えていく。

さらに時代が進んだ19世紀に入ってからは、砲術や造船、製鉄など、より実用的な知識を藩士らが求めるようになった。そして、幕府はオランダに依頼し、長崎に海軍伝習所を開く。そこから後に明治維新で活躍する数多くの若者を輩出したのは広く知られている通りだろう。

18世紀から19世紀にかけて、長崎は西洋の学問や科学技術を学ぶ一大センターになっていた。大志を抱く若者にとっては、今のシリコンバレーのような存在だったと言えるかもしれない。

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唐人屋敷と対馬  長崎の二枚腰

さて、この時期の長崎にはもう一つの重要な側面があった。

オランダとの交易のみならず、隣国の中国、朝鮮とも直接の貿易、交流を維持したことがそれである。

中国とは明(1368-1644)の時代から、平戸の藩主、松浦家を通して長く公式、非公式の交易があった。松浦家は、中世末期より、東シナ海交易の実力者で、活発な海賊の動きも押さえていたと見られている。そして、徳川幕府が公認した朱印船貿易でも松浦家は主要な役割を果たした。

しかし、中国との貿易も長崎に集約されることになった。

明から清へと移った中国とは、唐人屋敷(1689–1870年)を通して長崎で交流が続いた。ここでもオランダ通詞のような唐通事が翻訳や貿易実務を手掛けて活躍している。

尚、長崎の唐人屋敷は、約3万平米の広さで、2千人ぐらいの人員が収容可能だったといわれている。そして、オランダの商館員とは違い中国商人らの長崎での活動に制限は少なかったようだ。貿易規模はオランダの2倍ぐらいとみられ、商人は中国から主に生糸や絹織物を輸入し、日本から銀や陶磁器、海産物を輸出した。

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また、幕府は、対馬藩を窓口として朝鮮との交易・人的交流を続けたことも覚えておきたい。

徳川幕府は、対馬の宗氏を通じて交易を管理し、江戸で、朝鮮からの通信使(1607-1811、12回)を迎え入れ、2世紀に亘る文化交流、友好関係を維持していた。

新興ヨーロッパと隣国の中国・朝鮮、長崎は両者に対し、二枚腰で良好な関係を築いたことは特筆されていいのではないだろか。

近世300年 長崎の歴史に学ぶ

以上、16世紀からの3世紀に亘る長崎の姿を描いてみた。

長崎は「世界システム」の中心となるヨーロッパへのゲートウェーとして、日本全体に世界の先端情報を届ける重要な役割を果たしていた。

そして、長崎は、近隣諸国との良好な国際関係を維持できるレジリエンスを備えていた。

新しい文化や学問を取り入れる進取の気風、貿易や商売の実利を優先する商人の知恵、そうした風土が長崎では醸成されていたのかもしれない。

世界は先端技術を巡り競争が激化する中、国はどう優位を確保することができるのだろうか。

また、世界が分断される中、国や地域はどう経済と政治のバランスを取り、国際関係を維持していくのだろうか。

こうした問いに対し、この時代の長崎の歴史に学ぶことで、答えのヒントが見つかるかもしれない。これからも、学習を継続して行きたいと思う。

今回もだいぶ長くなったが、以上で、私の近世長崎点描を終えたい。長崎についてはテーマが多くあり、いずれ別稿を書きたいと思っている。また、お付き合いいただければ幸いである。

付記:梅雨に訪れた長崎は真夏が想像できるほどの暑い一日だった。照りつける陽を避けながら、路面電車に乗り、眼鏡橋辺りの石畳で、一時の散策を楽しむことができた。

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関連年表:

1543年 ポルトガル人 種子島漂着 鉄砲伝来
1549年 フランシスコ・ザビエル 鹿児島着 
1550年 ポルトガル船 平戸へ来航 
1571年  長崎開港
1573年  室町幕府 滅亡
1582年  天正遣欧少年使節 長崎出港
1587年  豊臣秀吉 バテレン追放令を発布
1590年  秀吉の全国統一
1596年  秀吉 禁教令を発布
1600年  オランダ船 リーフデ号 豊後着 
1602年  オランダ 東インド会社(VOC)設立
1603年  徳川家康 江戸幕府を開く 
1609年  オランダ商館を平戸に設置
1613年   全国キリスト教禁止令 発布
1614年   宣教師の国外追放
1635年   唐船の入港 長崎に限定
1636年   長崎 出島完成 
1637年 島原・天草一揆
1639年 ポルトガル船 入港禁止
1641年    オランダ商館 長崎へ移転 
1642年 イギリス 清教徒革命
1644年    明朝滅亡 清朝へ 
1689年    唐人屋敷 完成
1720年    徳川吉宗 洋書輸入の緩和
1774年  『解体新書』刊行
1776年 アメリカ独立
1789年    フランス革命
1799年    オランダ東インド会社 解散 
1840年    アヘン戦争
1853年    ペリー 浦賀に来航
1855年 長崎海軍伝習所 設立  
1858年    安政五か国条約 締結
1858年 出島の終焉 オランダ商館閉鎖
1867年    大政奉還


関連サイト:

長崎歴史文化博物館
http://www.nmhc.jp/index.html

出島資料館
https://nagasakidejima.jp/

遠藤周作文学館
http://www.city.nagasaki.lg.jp/endou/




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