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最近「なぜ歴史を勉強するのか」「どうやって勉強するべきか」という記事がいくつかNoteでアップされています。これは私が貢献できそうなテーマなので、便乗して「歴史学に何ができるか」について書きます。Noteでの議論を踏まえて、世界的に影響力のある歴史家たちがどんなことを言っているのか振り返って、それらの利点と問題点を考えてみたいと思います。

Noteでの議論

まず公開されている2つのNoteを紹介します。

高校教師のまなびや茶屋さんは、歴史を勉強するときには、その時代の大きなテーマ・因果関係・法則性を意識しながら知識をつなげていくことを強調されています。これは私たち研究者や教員が歴史を学ぶ上でやっている基本的なことです。同業者っぽい感じがします。

上永春倫さんは、タイトルの通り、現代までの文脈を理解すること、自分のコミュニティを超えた平等な観点を獲得するために世界史の勉強が必要だと主張されています。「現在起きている問題の文脈を理解するための歴史」というのは、まさに私がやろうとしていることで、歴史学の存在意義のひとつです。

しかし、世界史の教科書も厳密には「平等」ではありません。学校の教科書というのは概して島嶼地域よりは大陸中心、小国よりは大陸中心、アナキーよりは国家中心的、理論や概念的には西洋史のカテゴリーに基づいてに書かれています。学会における世界史家たちはこういった既存の世界史を乗り越えようという努力をしてはいます。ただ、高校レベルの世界史が提供できるのは、自国の認識の相対化、そして世界史の中での文脈化程度だと思います。

歴史家は何と言っているか

実は、歴史学の在り方というのは、ここ何十年も論争になっているテーマです。なぜ歴史を勉強するかについては、主流の歴史家は、「大事なことを覚えておくため(トゥキディデス)」「有りのまま何が起きたかを明らかにするため(カー)」などと言っています。マルク・ブロックやEH・カーは「歴史家は役に立たないことを誇れ」というようなことも言っています。彼らの見解では、優れた歴史家の作品は為政者たちによって簡単に利用されないようなものなのだそうです。これはこれでちょっと深い話なのですが、私は少し物足りないと感じています。

第二次大戦後には、たくさんの旧植民地が独立しました。それまでの世界史というのは基本的に西洋・男性・リーダー中心的なものでした。歴史家たちは旧植民地の国々や地域を応援するためにアフリカ史や東南アジア史、独立した国々の各国史などを発展させました。例えばジョン・シュメイルは西洋との国際関係史を卒業した「東南アジアの自律的な歴史」を書くことを提案しました。これは、当時国際関係的に弱い立場にありつつも、存在感を増してきた地域を積極的にサポートしようとする歴史家たちの動きです。社会史、人々の歴史、女性の歴史、黒人の歴史などが盛り上がったのも1940年代以降のことです。つまり、20世紀の歴史学というのは、社会運動とそれなりに連動し、新しい未来の可能性を開くためにそれまでの間違った過去の認識を是正していました。今ある世界史の認識というのは、彼らの政治的にコミットした歴史の成果で成り立っています。

ここ最近の5,6年間歴史家たちの間で論争の的になっている本で、2014に発表されたジョー・ギルディとディヴィッド・アーミテージのThe History Manifesto(歴史学宣言)があります。彼らの主張をざっくりまとめると以下のようになります。

現在人類が直面している問題の解決には長期的な思考が求められる。政府顧問としても、学会においても、物理学・経済学・脳科学などが人気の学問となっているが、これらは短期的な思考に基づく学問である。大学や研究者たちもまた、市場からの圧力により、短期的な結果を出すことを求められている。このような状況に対して、長期的な思考を提供できるのが歴史学である。

彼らは更に歴史学の強みを何点も挙げています。

1.歴史学には、問題の文脈を明らかにする力がある。
2.歴史学には、現在の支配的な見方を問い直す能力が有る。
3.歴史学によって、特異に見える問題をより広く大きな継続性や変化の一部として認識できる。
4.歴史学は、問題を単一の原因に帰結すること無く、複数の原因を関連付けて理解することができる。
5.歴史学は、間違った過去の失敗や集団的な勘違いから人々を解放し、新たなコンセンサスを作り出し、未来への可能性を開くことができる。
6.何よりも短期的な思考が支配する世界に長期的な思考を与えることができる。

ギルディとアーミテージは、こういった歴史学の可能性を重視して歴史学と学会全体の改革が行われなければならないと言っています。歴史学者は短い時間を扱うよりは、500年、1000年を扱うべきだと言い、「役に立たないこと」を誇るよりは社会的な役割を果たすべきだと言います。

歴史学宣言」に対しては高い評価とともにきびしい批判を浴びせられています。例えば、「20世紀の歴史家が社会的役割を果たさなかったとか、前の世代の歴史家たちの大部分が短期の歴史に流れたというのは事実誤認だ」とか「歴史学がこうでなければいけない、というのはそもそも権威主義的だ」とかです。

私は、ギルディとアーミテージのマニフェストに関しては、総論賛成・各論反対くらいです。実際、「歴史学が何をできるのか」を意識して歴史学をやらなければ、小指の爪を研究するようなことになりかねませんので、彼らの主張は頭に入れて歴史学をやった方がいいと思います。


長期的持続と持続可能性

長期的思考の重視というのは私も同意しているテーマなので、「歴史学が何をできるか」の例えとして「持続可能性」やコロナ対策について考えてみたいと思います。

持続可能性の議論をしている主要な論者は経済学者や政治学や開発論や人間の安全保障論の方々です。アーミテージたちに言わせれば「短期的思考の学問」です。彼らが提供してくれる推論は、「現在の人々の生活の有り様や世界観が変化しないと想定して」の未来です。彼らは持続可能性を議論しながら、1980年代以前の史料には当たりません。いわば、現代の支配的な見方に基づいて未来の在り方を提言しています。「ツバルが沈むと国がひとつ亡くなる」、「気温が上がると日本に熱帯の病気が広がる」という国土をベースにした問題として捉えます。

これに対して、例えば環境史家たちが現在やっているのは、長期的な環境や気候の変化とともに人間の生活がどのように変化してきたかということの研究です。例えば、環境の変化で、漁がダメになったり、農作物が育たなくなったときの人間の歴史的に最もありふれた対応としては移住があります。移住というのは、もちろん領土ベースではない考え方です。環境が人口を支えられなくなれば、人類はいろいろな方法で調整してきました(今ではダメな方法もたくさんありますが)。

焼き畑農業は「持続可能ではない」と言われますが、世代を超えて同じ農地をぐるぐると回るタイプのものがあります。これは200年スパンで考えれば持続可能だと言えます。

最後に、今年コロナのパンデミックが起こったとき、危機対策の人々や一般の人々がかなり悲観的に考えていたのに対して、長期を扱う歴史家、例えばハラーリや藤原辰史先生(知り合いです。作品に対してコメントを送ったら「カブラの冬」を贈呈してくださいました。京大関係のバイト紹介してくださいました。いい人です。)が感染症自体に対しては比較的楽観的だったと指摘しておきます。ハラーリは、「今世紀では最も大変なパンデミックになるかもしれないけれど、人類の大多数は生き残りますよ」、藤原先生は、「楽観してはいけない」と言いつつ、「本当に怖いのはウィルスではなく、ウィルスに怯える人間だ」と書いてました。(彼らが恐怖を煽らないように冷静な対応をオススメしてくれればさらによかったかなーと思います。)


長期的持続で有名なフェルナン・ブローデルの「物質文明・経済・資本主義」をかじったことがある人ならば、すぐに「コロナ自体では人類は壊滅的な被害は受けないだろうな」と考えたと思います。(私はそういう人でした。)

ブローデルによれば、人類は、15世紀くらいまでは新しい感染症が流行るたびに社会の人口が半減し、それから均衡値に戻り、また感染症で半減、回復というサイクルを繰り返す生き物でした。ですが、16世紀からは、このサイクルは全く繰り返さなくなります。ブローデル曰く、環境の変化と科学の進歩が主な原因と考えられます。

15世紀というのは、そもそも石鹸や手洗いがありませんでした。科学的な意味での殺菌という概念もありません。当時知られていた感染対策というのは、「引きこもる」「感染者がいるとき風下に立たない」「死んだ人の遺品は全て燃やす」などだけです。ある程度効果があるので、今でもやってますよね。でも、手洗いやうがい、その他の殺菌の方法やマスクが無かったんです。

実際、20世紀にもスペイン風邪、香港風邪、アジア風邪で、100万から数百万人が亡くなったわけですが、大多数の人は忘れてしまうくらいのものでした。2020年2月の時点で、政策決定者たちがブローデルの作品を読んでいたら、もう少しバランスの取れた対応ができたかもしれないなと思います。

そういうわけで、私は一般の人たちや政策決定者は特に長期的な歴史(と歴史学)を勉強するべきだと思うし、歴史学者は政策を議論してもいいと思います。(学校の勉強が出来事の暗記にフォーカスしすぎているのは問題かな、とも思います。)

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