見出し画像

私は余計者。余計な時間を無駄にしたくはない:サイド・フセイン・アラタス最後の教え

今日は、私が「研究者になってみようかな」と考えるきっかけになった、故サイド・フセイン・アラタス教授のシンガポール国立大での最後の講演について書いてみます。彼は一般的な意味では「成功者」と言える方ではないのかもしれないけれど、タフな人です。「不要不急」が多用される今だから、「私は自分を余計者だと考える」と言っていたアラタスの言葉を思い出すのです。

画像1

↑別の記事でも載せたけれど、学生時代の私が授業中に描いた似顔絵です。

東南アジア研究の修士の学生としてNUSに入学した頃、最初に履修した科目のひとつが、レイナルド・イレート教授の東南アジア史研究史の授業でした。イレート先生の授業では、受講者は自分が関心のある国をひとつ選び、その国で研究した歴史家数名について独自研究を行いました。私はイレート先生の専門分野でもある、フィリピンを選択しました。一学期間で全てのグループのプレゼンが終わると、東南アジアの10ヶ国を全てを廻って、それぞれの国の重要な歴史家の4,5名の伝記と作品の概要を知っているというところまでいけます。それとは別個で、イレート先生が、合衆国での東南アジア史の成立を、自伝的な内容を含みつつレクチャーされていました。

わかる人には、この授業の構造を聞くだけでイレート先生の政治的な意図がすぐにわかるので、「彼は生徒たちに自分のアジェンダを吹き込んでいる」という批判はありました。東南アジア研究は欧米で生まれたものだから、欧米の重要な歴史家から始めるべきなのに、イレートの授業ではASEAN諸国内で活動している学者の作品を読むことが必須にされている。イレートの反植民地主義を反映している、というわけです。英語圏風に言えば「アファーマティブアクション」、積極的是正措置ですね。

でも、私の場合、イレート先生の研究史の授業を取らなければ、一生読まなかっただろう東南アジア各国の歴史家に出会うことができたと思っています。世界的に有名なベネディクト・アンダーソンやジェームズ・スコットの作品ならいつでも読めるけれど、インドネシアのエイドリアン・ラピアンとか、タイのジット・プミサック、フィリピンのレナト・コンスタンティーノの作品を課題に出す教授はほぼいないでしょう。

私が後に熱中することになったマレーシアの社会学者、サイド・フセイン・アラタスのことを知ったのもイレート先生の授業でした。アラタスは、20世紀中旬以降に東南アジア研究に貢献した東南アジア人の最初の世代に属していた人物です。

初めて見せられたのが、アラタスが亡くなる少し前のシンガポール国立大での講演です。「Superfluous Man」とタイトリングされていました。タイトルを読んだとき、私は「余剰人間?余計な人?」と頭をかしげました。
画面の中のアラタスが話し始めました。

「私は自分自身を余計者(superfluous man)だと考えています。余計者というのは、最初に19世紀のロシア文学で用いられた概念で、社会的に利用されない才能や能力を持った人々のことを指します。ロシアの文脈では、当時の西洋の進歩的な思想や教養を身に着けた若者たちが、帝政の方針転換によって活躍の機会を奪われた結果、余計者となりました」

こんな始まりでした。そしてご自分の話が続きます。

「私は30年間も汚職について研究してきたましたが、それに関してマレーシアとシンガポール以外からは講演の招待を受けたことがありません。そもそも、大学教授という仕事自体、社会的に有意義な研究を伝えるのに最適な場所とは言えません。私は社会的に有意義な研究をしてきたという自負を持っていますが、私が作り出した知識は各国政府や企業やメディアや一般の人々に広く利用されているわけではないのです。そもそも、彼らに届いているとも言えません」

ここで、アラタス先生の人生について少し書いておきます。1928年、彼は蘭領東印度(今のインドネシア)で生まれ、第二次大戦をそこで経験されました。戦乱と汚職が社会に広がって行くのを経験し、それで後に汚職の研究に関心を持たれたそうです。50年代にオランダに留学して社会学を勉強し、帰国後に学会と政界を行ったり来たりします。

研究者として汚職と植民地主義の批判者だった彼は、政治家としてもマレーシアのブミプトラ(マレー人種)優遇政策の撤廃を求める政党の指導者のひとりでした。等しく教育の機会が与えられないと、競争が無くなり、知識階級自体が腐敗してしまうというのです。彼の研究と政治は、理論と実践として一貫していたわけですが、政治的には野党として燻って終わります。これが彼が「私は余計者」と言っていた理由のひとつです。

もう一つの理由は、学会での彼の立ち位置です。今でこそ彼は東南アジア研究とポストコロニアル研究の世界でパイオニアと見なされていますが、現役だった頃は意図的に無視されていた(あるいは彼の仕事の意図が理解されなかった)というふしがあります。彼の最も重要な作品である「怠惰な原住民という神話」が発表された当時の欧米からの書評を読んでみると、散々な内容です。発表から20年ほど経ってから、東南アジアの研究者たちやエドワード・サイードのような植民地主義の知識を批判する彼より若い世代から再評価されはじめました。日本でも翻訳しようという話があったそうなのですが、資金が得られず、たち消えになったそうです。学会でも得るべき名声を得たのは、現役を退いてからというわけです。


しかし、アラタス最後の講演は、余計者についてのネガティブなコメントで終わりません。

「余計者であるということには、利点もあります。ひっぱりだこになれば、忙しくなり、流行に流され、政府やテレビのために無難なコメントをしなければいけなくなります。19世紀のロシアの余計者たちが偉大な文学を作ったように、余計者でいるかぎり、自分の研究したいことを研究し、そのために時間を使うことができます。私は私の余計な時間(superfluous time)を有用に使いたいし、余計な時間を無駄にしたくはありません。


私が後にアラタスの作品に熱中したのは、ひとことで言えば、彼の作品がどれも非常に独自性が高い作品で、一貫して著者の問題意識や精神を表現し続けているからです。ある程度流行っているトピックに便乗して書くことが求められる学会においては特異な存在です。アラタスは、独自性の高い研究ができた理由を「利用されない時間があったから」だというのです。

講演の最後にアラタスは、未だうまく利用されていない作品を書くモチベーションについて語っていました。

「今はまだ私が生産した知識がうまく利用されていません。妨害するものが多くあります。けれど、未来の世代は違うかもしれません。だから、未来に期待して書くのです。


今年の2月からフィリピンでフィールワーク中の私は、防疫体制が始まった後にシンガポール政府から「国立大の仕事は不要不急なので、今すぐ帰国させる必要性はない」と言われています。余計者としての自覚が強まりましたが、ある意味自由度は高いです。

私でなくても、フィリピンでは「不要不急の仕事」に就いているとみなされている人々には、仕事への復帰の目処が立たない方々がたくさんおられます。日本でも(友人の学校給食の仕事がおやすみになっていたので)似たような状況の方がたくさんおられると思います。多くの人たちが「余計者」になったのです。

私は、防疫体制のおかげで、今まで可視化されていなかった問題が見えるようになったと感じています。これはある意味好機です。率直に言えば、余計な時間ができた人、余計者になってしまった人には、可視化された問題について考えてみて欲しいです。数十年後の未来を少しマシなものにするために。


土屋の他のアラタス関連記事↓

サイド・フセイン・アラタス講義録
ー(1)自律的社会科学伝統、囚われた思考、模倣型の研究. https://note.com/kishotsuchiya/n/ne52daa22dc9e

ー(2)「怠惰な原住民の神話」と学知の普遍性について. https://note.com/kishotsuchiya/n/n883eab4dbf7f

ー(3):研究の重要性の基準、自律的社会科学、ごますり性の社会学. https://note.com/kishotsuchiya/n/n06f8b16a3dd2

よろしければサポートお願いします。活動費にします。困窮したらうちの子供達の生活費になります。