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形而上学的認識のプロセス:偶像、偶像破壊、直接信仰

主にセム系宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)由来の思想で、世俗の改革運動・ラディカルな革命運動(アナキズム、フェミニズム、無神論)との関連が非常に強い概念として偶像破壊があります。偶像崇拝・偶像破壊については、昔から賛否ある話なのですが、面白いテーマなので少し書いてみます。

新約聖書というよりは、どちらかと言えば旧約聖書に強く現れる思想です。既に創世記のアブラハムの時代には「偶像を破壊しなさい」というのが出てきて、モーセの律法で明文化されました。モーセの時代には偶像破壊というのは、他の民が信仰している神々の偶像を破壊するという意味で使われますが、後の時代にはモーセよりも更に偶像破壊的な指導者が出てきて、モーセが作った蛇の像さえ破壊されます。

ユダヤ教でもキリスト教においても基本的に全ての宗派が「偶像崇拝禁止」です。カトリック教会の場合、ゲルマン人侵入でラテン語の通じない信者が増えた時にちょっと妥協して、十字架や絵画や聖人の像などをキリスト教を浸透させるのに用いました。6-7世紀に預言者として現れた初期のイスラムや、16世紀のプロテスタントの宗教改革などは、その時代のカトリック教会と比較すると偶像破壊的な運動でした。

シンガポール国立大の院生時代に原理主義や偶像破壊について議論する機会が多くありました。偶像破壊については、文化圏や所属団体、育ちなどによって常識的な見方がかなり違うみたいです。私の社会学の先生で、ムハンマドの末裔で、イスラム教徒のサイド・ファリド・アラタス教授は、基本的に偶像破壊というのは、あまりよくないと考えておられるようでした。原理主義グループが「ムハンマドの墓は、崇拝の対象になってるから破壊すべき」と主張していたのに対して、彼は「歴史的に重要な遺産で、巡礼に行くイスラム教徒だって墓を拝んでるわけではなく、単にリスペクトしてるだけだ」と言っていました。

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写真1 サイド・ファリド・アラタス准教授

文化人類学の先生で、今は京大で教えておられるジュリアス・バウティスタ先生も、ほぼ同じスタンスだったんじゃないかと思います。

私の場合、プロテスタントの、どちらかと言えば原理主義に近い組織で育ったこともあるので、(実際に仏壇を破壊して回ってる一部の牧師とかには正直引きますけど)偶像破壊っていうのは自分の中で世界の見方のひとつとして定着してるんですよね。義理の家族がみんなカトリックで、初めて知り合ったころはいろいろとびっくりしました。(聖人の像の前で祈ったりって、原理主義的にはヒンズー教とほぼ同じです。)

偶像破壊的な世界の見方のどこに魅力があるか。西洋で言う所の「自由」っていう概念と関わりが強いんだと思います。「偶像崇拝」が象徴するのは、精神を持たない物質的な何かが人間に対して権力を行使しているという関係です。偶像を(物質的に、あるいは象徴的に)破壊する人というのは、モノの権力から自由になるのです。

この偶像破壊という考え方は、突き詰めるとほぼどこまでも突き詰められます。「聖書はインクと紙で出来ている」と言ったスピノザが晩年プロテスタントの教会に通っていたというのは、ある意味17世紀当時のラディカルな思想家がプロテスタントと関わりを持っていたことのひとつの証左だと思います。また、「神は死んだ」のニーチェもプロテスタントの牧師の息子です。世界や実体というものは哲学者の偶像だと言う、マルクス・ガブリエルもプロテスタントが多いドイツの出身ですよね。言い換えると、偶像破壊のスタンスでとことん考えていくと、十字架や聖書も偶像、神も実体も世界も偶像というところまで行けるのです。

私自身の偶像破壊的な運動に誘惑されやすい性格というのも、ちょっと皮肉ですが、ある程度までは教会で受けた教育が背景にあるとは思います。私はアナキズムが大好きですし、トレヴァー・ブラウンやアーバンギャルドも好きです。保守的なおじさん・おばさんたちからは「なんであんなに悪魔的なモノが好きなの?」と聞かれるけれど、「悪魔的というより、偶像破壊的なモノに誘惑されちゃうんです。」としか答えようがない。セム系宗教の伝統というのも全然一枚岩ではないです。

↑ ジュリアス先生のプロフィール

私に偶像崇拝的な考え方とも偶像破壊的な考え方とも違う観点を教えてくれたのが、先述のジュリアス・バウティスタ先生がおすすめしてくださったMatthew Engelkeの「A Problem of Presence」という本です。ジュリアス先生は「きしょうは、キリスト教の人類学を勉強するといいよ。キリスト教もいろいろだってわかるから」と言ってこの本をくれたのです。(ひたすら本を読めっていうのも偶像崇拝ですけどねw)

この本はあるアフリカのプロテスタントの教会の信仰と実践について研究しています。彼らの宣教の方法は、非常に印象的なエピソードです。

この教会のアフリカ人の宣教師たちは聖書を配ります。それで、宣教された方のおじさんが「俺は、たばこの巻紙が足りないからきっとこの本を巻紙にして燃やしちゃうよ。」と言います。すると宣教師の方は、「別にいいですよ。ただし、しっかりそのページを読んでから、巻紙にして燃やすと約束してください」と言って、誓約させてから聖書をただであげます。

ここで著者は、スピノザの「聖書は紙とインクで出来ている」という主張を引用しつつ、キリスト教伝統内部の「直接信仰」の伝統について語ります。Engelkeは、スピノザは物質である聖書を神聖視する必要は全く無かったけれど、(例え毀損した神の観念に囚われているとしても)聖書に書かれている情報を一旦読まなければ「神の妥当な観念」あるいは「神の直接的な認識」に至れなかっただろうと言うのです。聖書を、より高い認識に至るための道具とするキリスト教内部の伝統があるというわけです。Engelkeは彼が研究したアフリカの教会もまた、この直接信仰の伝統に位置づけられると言います。

つまり、偶像崇拝を卒業しなければ「神の認識」(より明晰な形而上学的認識)にたどり着けないけれども、物質性の否定をとことん突き詰めてしまうと、それこそ知的にも信仰的にも成長できない、というのです。学校で言うと、教科書を崇拝する必要性は無いけれど、教科書がないと知識を溜めるのはかなり難しいみたいな問題です。認識を1か0かで考えるのではなく、プロセスとして考えるんです。(熱心なカトリック教徒たちやラーマ・クリシュナみたいなヒンズー教のグルの中にも像を媒介にしてより高い認識に至るというようなことを言う人がいます。)

直接知と物質性のバランスを考える立場に立つと、「科学」とかもある意味偶像崇拝になりがちなんですよね。科学的手法、つまり疑いの目で実証するというスタンスだけが信頼されるべきなのに、研究の成果の方が信仰されてしまう。私達が書いてる論文や本は「成果」、あるいは更に優れた認識に至る「道具」であって、それが無批判に受け入れられてしまっては思考停止の偶像崇拝です。


土屋くんの他のセム系宗教の話↓

ヨブ記論
- (上):絶望の定義、類型、ヨブの絶望. https://note.com/kishotsuchiya/n/n231dd83d6229
- (中)正しさに関する論争 https://note.com/kishotsuchiya/n/n25ab614c02d1
- (下)倫理世界の再構築. https://note.com/kishotsuchiya/n/ne17e9698b3a9

亡くなった親友のこと. https://note.com/kishotsuchiya/n/n0a67d136fe9a

スピノザゆかりの地めぐり(オランダ). https://note.com/kishotsuchiya/n/n5022efbf95a7

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