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セミフィクションの小説だと思ってください。

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(1)

マスクをしての外出から帰宅すると、母から急ぎの電話がかかってきた。

「Mくんが30歳あまりの短い生涯を終えた」

端的に言えばそういう電話だった。海外滞在中の私には、東京にいる親友が亡くなったということが、事実としても感覚としても信用できなくて、当人に電話してみたりした。もちろん、亡くなっている人物が電話に出るはずもない。

結局、母教会の牧師をやっている彼の兄に電話して「死んじゃったならお別れを言いたいから遺体を見せて欲しい」と言った。Mは、友人なら見慣れているだろう、会議中に居眠りしてる時のような、にやにやした表情のまま動かなくなっていた。朝起きたら心不全で亡くなっていたそうだ。

Mがもう動かないのだと理解し始めると、根底で私を支えてきた何かが突然無くなってしまったような気がして、あるいはMのいない世界というのがイメージできなくて、涙が溢れ出てきた。私の生きてきた環境、経験してきた痛み、そして私自身が、あまりにもMとの関係で出来ていた。


(2)

いつ知り合ったのかは思い出せない。

一人っ子の私には、3歳で連れて行かれた世田谷の教会が生まれて初めての子供の社会だった。ぼんやりとしか覚えていないが、子供がたくさんいて少し怖かった。多分、そのうちのひとりがMだったのだろう。婦人たちの集会とかでも顔を合わせていたのかもしれない。

けれど、私が明確に覚えている最も古い記憶のひとつは、Mと共に幼稚園に向かう車内の場面だ。牧師婦人が、まだ半分寝ている末っ子、つまりMを車に押し込む。道中、毛布に包まれたMが、泣きわめきながらおむすびを食べている。騒がしいMとの通園の影響で、私は梅干しもおかかも好きなのに、おむすびとしては全く「おいしそう」と思えない体質となった。幼稚園が嫌だったのか、それとも当時は寝起きが悪かっただけなのか、私には検討もつかなかったが、とにかく彼は通園に必死に抵抗していた。

これは、何度も繰り返された光景だ。我が家には足がなかったこともあり、私は牧師婦人であるMの母親の車に乗せてもらい、二子玉川のキリスト教系の幼稚園に通った。Mは5人の兄弟姉妹の末っ子で、上の子どもたちも全員同じ幼稚園の先輩だった。大人になった今では「M君を含めてたくさんの子供を育てた牧師婦人も大変だったろう」と思うが、記憶としては凄まじい光景と喧騒だけが残っている。

私の記憶とは対象的に、Mの世界は音のない映画のようなものだったのだという。10歳くらいになるまで、私はMが難聴だということを知らなかった。私は「補聴器」という言葉はかなり早くから知っていたけれど、Mの場合、牧師の姉にあたる叔母さんとも私とも、おそらく私の母ともコミュニケーションが成立していた。少なくとも、私にはそう思えた。Mの叔母さんもまた難聴だったということを私は後から知るのだが、当時はMの言葉がわからない大人たちがおかしいのだと思っていた。概して大人たちは、子どもたちの言い分を理解することに関しては怠惰な生き物だ。私も親になって少しそう思う。

幼稚園はやはり怖かったけれど、二人で通ったからひとりぼっちになる心配はなかった。他の子供たちに言わせれば、園でもその後も私たちは「セット」だった。放課後僕らは、ウルトラマンや怪獣のおもちゃで遊び、女の子も一緒のときはセイラームーンごっこさえやった。岡本民家園では、Mのお父さん、つまり主任牧師が、イエス・キリストが弟子たちに行った洗足の儀式を再現するように、私たち二人の足を洗ってくださったこともあった。私達はがっちりキリスト教的に育てられた。

教会学校の遠足で一緒に青山の子供の城に行ったこともある。私が先に帰って、その後、Mが迷子になった。連絡が来た後、私達は青山に戻って、それこそ側溝や草むらまで、みんなで一生懸命探して、夜遅くになってやっとMが見つかった。後でわかったのは、Mは私を探していて迷子になり、来たのと同じ方向の電車に乗ったら、知らないところについてしまったということだった。帰るときにちゃんと伝えておけばよかったと思ったけど、私は牧師婦人に「ちゃんと見てなきゃだめでしょ」と八つ当たりした。

幼稚園を卒園すると、私達は居住区が違ったため、別々の小学校に行くことになった。毎日会ってた人とあまり会わなくなるというのは、私にとっては初めてのこと。もしかしたら寂しかったのかもしれない。ついでに、小学校というのは、私にとって初めての「ノンクリスチャンの社会」だった。

学校でカエルの物語を通して「親友」という言葉を習ったとき、私はMに手紙を書いた。
「ぼくはきみがぼくの親友なんだとおもいました」
Mはとてもうれしそうで、青年になっても、大人になっても、彼は私に言及するとき「僕の親友です」と「親友」を強調していた。

(3)

親友だと言っても、私にとってMは異質な存在であり続けた。泣きわめきながら梅干しのおにぎりを食べる子供で、小学校から高校まで毎年皆勤賞の学生だった。一月分の給料を一瞬にしてガオガイガーのおもちゃに使い切った。私が両親との会話を拒んだときには、ただ黙って隣に座っていてくれた。誕生日には必ず何かしてくれ、海外生活中は毎月生存確認の電話をくれる優しい友人だった。そして、レストランへの電話を面倒臭がって「今日は飲み会はないよ」などと嘘をつき、牧師の息子でありながら新来会者に「厚かましい」などと言ってしまうのだった。

彼が僕の知らないたくさんの世界を持っていたことにはびっくりする。何を考えていたのかなんて、本当はよくわからない。でも、私はMとの関わりを抜きにして私自身の形成を語れない。

小学校にあがったMは、普通科とろう学校の両方に通っていたそうだ。普通科の授業についていくのには、人一倍の努力が必要だったらしい。毎年皆勤賞の件もそうだが、私は、彼の頑固さをある意味畏敬している。

だが、学校というプロセスを通してMは、自分が「難聴」で「普通の子どもたちとは違う」と認識するに至った、と生前言っていた。マイノリティ的な自我が現れてくる中で、彼は困惑して荒れたそうだ。

同じ教会の日曜学校に通っていたとは言っても、Mは9時から、私は10時半からのセッションに出席していた。そして後に同じ学校に通うことになっても同じクラスになることはなかったため、実は彼の「学校」体験については伝え聞いているに過ぎない。私が知ってるのは、放課後の彼だ。牧師家庭からは、私の方はどちらかと言えば甘やかされて、Mの方はきびしく育てられたと思う。いずれにせよ、Mのお兄さんたちは、私達を学校の「悪いお友達」から守ってくれた。

小学校4年生の頃が、Mと私にとっての転機だった。私は7歳でビリー・グラハムに感化されて福音派の洗礼を受け、96年頃にMたちが通っていた公立の小学校に転校することになった。私は、新しい学校に溶け込むための作戦など練っておらず、案の定クラスで浮いた。

この頃、Mは耳が聞こえ始め、言葉をしっかりと話し始めた。これは医者に言わせれば「奇跡」だった。Mにとってはまるで新しい世界が開けたかのような体験だったと言う。

私の転校後、Mは授業が終わると真っ直ぐ私の家に「帰宅」するようになった。彼は「今日のおやつ何ですか?」と言い、私の母を「お母さん」と呼んでいた。それは私達にとっては懐かしい記憶でもあるけれど、同時に「普通の社会」に馴染めないキリスト教家庭の子どもたちが、放課後一箇所にたむろっているという、地下鉄サリン事件の後に宗教的マイノリティが経験した問題の縮図だった。

小学校4年生以来、「正常良い子」としての道を踏み外し始めた私の方は、子供のときから感じていた「Mを理解できない大人たち」が、「自分を含めた子供を理解できない大人たち」に直結してしまっていた。

「ヘンタイ良い子」として生きることが決定づけられたのが、4年時の担任教師との決裂だ。この事については、別の記事に書いたから詳細は省略するが、要は私がある少女を彼女の「知的障害」を理由に差別しているというのが、担任の言い分だったのだ。私は、担任の発言を、私とその少女とMへの侮辱と考えた。既にクラスで浮いてて、たった今言葉を話し始めた同級生と毎日放課後を過ごし、そして同時に争点になっている少女の暴力にさらされている私に「知的障害者を差別しない普通の子になれ」とでも言いたいのだろうか。私は、教師のとんちんかんにあきれて、皮肉な笑いを浮かべていた。それからというもの、私は絶妙に悪いタイミングで笑顔を作ってしまう癖(怒っているのに他人事のようで笑えてしまう)が治らず、それなりに困っている。

今思えば、隣のクラスからMを証人喚問したら、担任も困っただろうと思う。結局私は、Mに迷惑をかける気にもならず、担任の言説に沿って議論するのもシャクなので、その件は校外で向こうがふっかけた「喧嘩の延長」であって「差別」ではないと主張するにとどめた。ついでに、「そういう先生の言い方自体、Aちゃんに対する侮辱なんじゃないですか」と付け加えた。こうして私は、中学卒業まで教師たちから「クソガキ」というあだ名で呼ばれることになった。

この担任のおかげで、私は既に浮いていたクラス内でさらに浮いた。それで私は大人たちに明確な敵意を向け始めたし、彼らの偽善的な思考形式を暴くのにある種の快感を覚えた。私は、数人の無能な大人を、全ての大人たちの代表とみなしていた。

Mはこういう傾向を強めていく私から距離を取った。私達はもいつも同じ親しさだったわけでもない。彼の言葉では、

「正直、あの頃の君にはついていけないと思ったよ(笑)」

彼の学校での経験は、私のそれとはだいぶ違ったのだと思う。初めて耳が聞こえるようになった彼には、友達と会話をしたり、音楽を聞いたり、歌ったりするのが本当に新鮮で楽しいことだったに違いない。後に一緒にバンドをやったときは、かなりノッていた。

彼には私の過激化についてなんの責任もない。でも、この頃私の中に生まれた「外部からの浅はかな解釈」に対する敵意は、Mとの関わりから出てきたものだ。これは今でも私という生き物を根底で規定している感情のひとつだ。良くも悪くも、私は彼と関わったことによる傷跡でできている。


(4)

Mの中学時代について知っていることは限られている。彼は文化系の部活に入り、おそらくその頃にサブカルに向かった。恋愛にも目覚めた。入学して3日後、別の小学校から来た子に告白して武勇伝になっているが、その後もアクティブだった。中学でも彼は皆勤賞を取り続けた。

なぜ詳しく知らないかというと、私たち日曜学校出身の幼馴染たちは疎遠になっていたのだ。我々の通っていたT中学校が部活強制加入を含む凄まじい束縛を行う学校だということがある。逆に言えば、マイノリティでたむろっていた私たちは有名な不良学校でもそれぞれなんとかやっていたのだ。もうひとりの幼馴染、K曰く、私に限って言えば暴力沙汰と奇行に加えて、界隈では有名な美少女とのロマンスの噂が先行して、後輩たちから避けられてたらしい。ちなみに、これらの噂のうちいくつかはPTAという悪の組織が流した風説だと発覚している。

Mの個性が確立されていったのも、私たちが再度お近づきになったのも、高校進学以来のことだったはずだ。私は法政の付属校へ、Mは都立の農業系の高校へと進んだ。Mは、当時から食事や農業に関わる仕事に関心があったと言っていた。

ある夏の日に電話がかかってきて、

「Mです。用事があります。僕の高校に部活を見に来ませんか」

と招待された。彼は自分が面倒を見ている畑や新しい友人たちを私に見せたかったようなのだ。Mの高校の友人たちが言うには、Mは雨の日も風の日も、学校で野菜の世話をしていたらしい。私は、「この人は、私が何もしなくても自分で友達を作れるんだな」と改めて感心した。

こういうことを言うと普通の人は、「なんでそんなに上から目線なんだ」、あるいは「過保護じゃないか」と思うかもしれない。多分、Mの耳が聞こえるようになる前は、他の人達がいるとき、私は無意識に通訳しなければいけないということが多々あったのだと思う。彼の家族や古い知人たちは、彼について語るとき、どうしても保護者に近い立場から語ってしまう傾向がある。

しかしMは、自分で好きなことを見つけ、会いたい人に会い、やりたいことをやるという積極性を持った人でもあった。だからこそ、Mが給料日前になるとケチになるのは、何か我々の知らない趣味に投資してるからだと経験的に知っている。高校生に上がった頃、今までの私が無意識的にMを守る対象として扱っていたことに気づいて、そういうのはできるだけやめようと思った。

私自身、高校でまた問題を起こし、反省文を書いたりしていたので、私のほうがいろいろと直さないといけないのかもしれないと、若干謙虚になり始めていた。この原稿用紙80枚程度の反省文は、私にとっては、体系立てて自分と家族・学校の関係性の問題について真剣に論じる初めての機会になった。これを通して、高校の教師たちとは、私が感じている問題について包み隠さず書いた上で和解することができた。法政二高の教師たちは、「クソガキ」の私を放置するのではなく、社会全体の問題の一部として真剣に対応してくれた。まともな「決起」の仕方がわからなかった私にとっては転機になった。

さて、十代後半のMは、家から初めて外に出た若い猫が自然界での自分の位置を確かめようとしているかのように、アクティブだった。セイジョーでバイトし、教育実習生の女性にラブレターを送り、教会内でも関係を広げ、後には日曜学校の先生にもなった。バイブルキャンプに参加し、あるいは奉仕し、帰ってくれば女子のアドレスが20件も増えていた。サブカルにも精を出した。バイト代を一気におもちゃに使ってしまったのもこの頃だ。高校の終わりくらいにはバンドでボーカルもやった。これらの活動のいくつかには私もお供し、彼の武勇伝を記録する者となった。ここから20代後半の大人数を嫌い、一対一の関係を重視するMを想像することはできない。

この時期の母教会は、青年層の強いリーダーシップにも恵まれていた。私たちより10歳くらい上の人達が、疎遠になっていた幼なじみたちひとりひとりに連絡を入れて昔の関係を回復させてくれた。一緒に海に遊びに行ったり、山に遊びに行ったり、あるいは失恋すればドライブに連れて行ってくれた。私たち高校生たちに人間関係の育み方を教えてくれ、資金的にも投資していただいたと思う。こうしてできた関係は、Mにとっても私にとってもかけがえのないものだ。私たちは、高校時代に本当にいい大人たちに知り合えた。彼らが、組織も学校も結局人間関係で出来ているという当たり前のことを教えてくれた。

(5)

M少年は、自分の好きなこと、将来やりたいことについてよく話していた。彼には食事や農業に関わりたいという気持ちがあった。高校の時点で、農業関連の高校を選んでいたのも彼の関心を反映していた。就職することになったときには、調理師(と後には管理栄養士)の資格を取って主に学校給食に関わることになった。

もう一方で、十代の頃の彼はキリスト教に関わる仕事をしたいと考えていたと思う。私には「牧師になりたい、のかもしれない」と言ったこともある。でも、本命は、両方の関心を満足させられるバイブルキャンプの調理師だったのではないかと私は思っている。ついでに彼はキャンプが大好きだった。

高校卒業後、彼は新潟の神学校で勉強することに決め、私はエスカレーター式に大学に進んだ。Mは、「とりあえず1年勉強して、(キリスト教に)献身する決心がついたらその後3年勉強する」と言っていた。牧師になりたいのかどうか確かめつつ、キリスト教世界で仕事をする下地をつくろうとしていたのだと私は理解している。

牧師家庭やその側で育った子供たちにとっては、「牧師」というのは現実的な職業だ。私だって、小学生の頃は宣教師になることを考えたし、高校生の頃にも神学校に行くことを検討した。大人になってからも「私が牧師だったら」と全く考えないわけではない。ただ、研究職の言論・信条の自由を経験した後だと、牧師というのはやや堅苦しい仕事だと感じる。

Mにとっては新潟での神学生時代が初めての地元東京を離れての生活となった。高校時代、私とMはかなり長い時間を一緒に過ごしていた。私たちは一緒に聖歌隊やバンドをやっていたし、一緒にキャンプに行った。休みの日には人体の不思議展、監獄カフェ、メイドカフェなどを巡り、私はMからサブカルの手解きを受けた。

そんな時に彼が新潟に行く決断をしたので、寂しかったのを覚えている。この間、ちょうどこの時期持ち始めたケータイ電話とやらを使って、メールというのをやりはじめた。

結果的に、Mと私は、休みはほとんど一緒に行動していた。夏休みは数週間一緒に松原湖のキャンプ場でワーカーをしており、冬休みは帰ってきていた。春にはまた松原湖と新潟でキャンプ場にいた。この間、彼は初めて体系的に聖書を勉強し、キャンプ場では力仕事や掃除と共にキッチンでの仕事を覚えていった。実際、キッチンでの彼の仕事は既に慣れたものだった。

Mの神学生時代を垣間見ることができたのは、私自身が2007年の新潟のキャンプに参加したときだった。Mは、礼拝や日曜学校の手伝いをしていたようで、変わり者としてなのか、人気者としてなのかわからないけれど、名声を得ていた。他の北陸地方から来てる子たちからも知られていた。彼らが教えてくれた新潟でのMの武勇伝のひとつは、「神学生として礼拝のメッセージと司式をしたときに(正式な牧師にならないとしちゃいけない)祝祷をあげちゃったことがある」という話だった。M本人に聞いたら、「みんな目をつぶっていたし、やっちゃってもいいかなーって」と言っていた。この頃できた友人の一部とは、亡くなる前まで連絡を取っていたようだった。

ちなみに私は、新潟にて、人生で一度きりの神秘体験をしている。当時、私は凹んでて、聖書通読とかヨブ記の読解をやっていた。ちょうど新潟のキャンプでのテキストがヨブ記だった。キャンプの最後のプログラム(意図したことでは無いと思うが、ヨブ記の愛読者には特別な意味を持つディベート形式で、私たちは負けた)が終わって、ひとりで草むらをぶらぶらして、空を眺めていた時に「神を見る」経験をした。

自分の視野から抜け出て、空から、そして神々の悠久の時間・無限に広がる空間の観点から自分たちを見た。同時に「見た」ことで、それまで持っていた神のイメージ・意味体系・倫理世界が崩れ去って、帰ったときには全く異なるオペレーション・システムを持っていた。逆説的に聞こえるかもしれないが、この経験を通して、私は信仰や神学よりも哲学や社会科学に熱中するようになった。

結局Mは一年間聖書を勉強して、牧師を目指すのはやめた。本当の理由は知らないが、しばらくバイトしたり、資格をとったり、就活したりすることにした。でも、彼が自分が何をやりたいのか・やりたくないのかわかるために必要なプロセスだったと思う。国連勤務時の上司が言っていたが、「男には自分のミッションが何か知るための特別な時間が必要なんだ」。(女はどうなの?)

それで私たちは、キャンプ場でしばらく働いた後、春休みが終わる前に一緒に東京に帰ることにした。新潟滞在が終わろうとする中、Mと私は、小学生でも中学生でもない、中学にあがる前の春休み中の少女をめぐって初めて口喧嘩をした。その後、帰りの新幹線で飲み会を開催していい気分になり、東京に着く前には仲直りした。二人共19歳で、ほとんど初めての飲酒だった。飲酒だめな教会もあるので、見つかっていたらそっちの意味でも怒られたかもしれない。こうしてMは還俗し、私は大学生活に戻った。


(6)

それ以降のMにいて書こうとすると、ビデオ通話のことばかりが思い出される。彼は定期的に生存確認の電話をくれたが、それではあまりにも個人的な話になりすぎる。原因のひとつは、私自身が東京を離れた時期だからだ。

しかし、一歩引いて考えてみると、「個人的な話になってしまう」のは、Mの友人ならば、ほとんど誰でもそうなのではないかとも思えてくる。「Mは、少人数のつきあい、特に一対一の関係を重視していた」この一点については友人たち全員が同意するのではなかろうか。

Mが大人数でやりたがったのはボードゲームだけで、3人や4人で話している時に誰かが加わってくれば、むっとした顔をするのを思い出せる。大人数の会議が始まれば、居眠りを始めるだろう。彼自身、「多数でいることは一人一人の価値が下がってわからなくなることだ」と言っていた。ボードゲームでは、多数であっても一人ひとりに明確な役割がある。役割のわかりづらい環境を彼は恐れていた。

Mが「遊ぼう」と提案するとき、彼は3人以上招待しようとはしなかった。博士課程の途中で帰国したときだったろうか、「地元の友人で集まろう」という話になった。Mが幹事だったから、当日の土曜日に確認の電話を入れると「えっ、今日は無いよ。うーん、昼頃なら二人で遊んでもいいけど」と言われた。

それで翌日の日曜日に教会に行ってみると、別の友人から「なんで昨日来なかったの?」と尋ねられ、私は困惑した。Mを追求してみると「客の人数に変更があるとレストランに悪いと思って」と言った。さらに追求してみると、彼は少人数で話すのを楽しみにしていたのだと言った。私は、「僕だからいいけど、他の人にそういう嘘をつくと今度から誘ってもらえなくなっちゃうよ。そのメンバーで遊びたい時は先にそう言えばいいんだよ」と言った。

Mも元々少人数に強いこだわりを見せる人ではなかったから、どうしてそういう主義に至ったのだろうかと考えを巡らせてみたこともある。彼の言っていた断片的な事柄を整理してみると、どうも具体的な事件があったというより、職場、婚活、教会、その他の様々な場所において、大人数のおしゃべりについていけない、あるいは置いてけぼりにされるということを繰り返し経験するなかで、少人数を確保するという対策を打つようになったようなのだ。

Mとカラオケに行けば、彼が「これは一緒に歌おう」というのは大槻ケンヂ作詞の「林檎もぎれビーム」だった。

Everything gonna be alright 空けぬ夜は無い
それが愛のお仕事そして
「マニュアルなの」

Mは、お仕事的な、マニュアル的な人間関係から抜け出そうとしていたと思う。資本主義的な「誰でも代わりがいる」ような、そういう存在としての自分は耐えられないと言っていた。


最後にMと私が東京でつるんでいた数年前、私は母教会で青年会の世話役をやることになった。世話役はまとめるのが主な職務と思うかもしれないが、私は広報部長も兼任だと考えている。結局、新来会者については世話役が案内するのが適当だからだ。前任者が「やりたいようにしていい」と言うので、私はやりたいようにした。

私がどういう問題意識を持っていたかというと、次のようになる。まず、貧乏学生中、ラマダン中のモスクで施しを受けたり、あるときは韓国系の教会に顔を出したりし、結局カトリックの女性と結婚した。私はそういう様々な組織から「迷子になって帰ってきた子羊」や「家族」として、あるいは「危険な部外者」として扱われた。それで私自身も、母教会で後者のような態度で外部と接してきてしまったのではないかという反省をしていた。古参の教会員がそういうスタンスでいる限り、教会は開けた空間になりえない。

あと、当時小グループというものが流行っていた。これはMが好きなものだ。もちろん親しい仲間がいるというのは教会に行く動機にもなる。けれど、帰国する前後の私が、青年たちの何人かに「あの人いまなにしてる?この人元気?」と聞いてみると、多くの場合「知らない」という返事が帰ってくるのだった。「仲良しグループで完結していて、教会全体やより広い社会への関心が薄れている」、これが私の印象だった。

それで、私が世話役としてやろうとしたことというのは、1つ目には外部から来た人たちを「潜在的な家族」として丁重に扱うということ。彼らにわかる平易な言葉で話すこと。2つ目に教会全体の課題を浸透させ、共通の活動を通して帰属意識を高めること。特に青年会を教会全体の利益や存在意義を頭に入れて活動する団体にすること。3つ目は、自分がそれを行動で示し、(役員会や牧師家庭とのコネを利用し)関わりがある複数の会派を行動や活動に巻き込むことで、体験と目的意識を共有した集団を作り出すこと。

私の「全体主義路線」に地味に抵抗していたのがMだったんじゃないかと思う。彼はそういう「想像の共同体」を作り出すよりも、個別具体的な関係を維持したいようだった。「僕は君の教会のためにやってる」「俺は行かない」「PKとしてやらなきゃいけないこと、やっちゃいけないこともあるだろう」「僕は牧師じゃないし、自分で選んで牧師の息子になったわけじゃない」というわかる人にしかわからない応酬をしたりしながら、私たちは二人で焼き鳥食ったり、カラオケ行ったり、結局は一緒に遊んで最後の東京での日々を過ごした。


(7)

私の海外勤務が始まると、Mと私は月一回くらいは電話で話す関係に戻った。私たちは、仕事、哲学、あるいは理不尽さや下品な事柄に関する身も蓋もない話をしたが、おそらく話題はあまり重要ではなくて、月一回はお互いの調子を確認することが大切だったのだと思う。

政府がコロナ対策で「自粛要請」した後だったろうか、当時の私には理解の及ばない相談をされたことがあった。ある「アイドルの追っかけをやめようと思っている」という相談だった。「どうして?」と聞いてみると、理由は2つあるというのだった。ひとつは、有名になる前のデビュー時から応援してきて、それ以降会いに行けるアイドルの常連のファンとして特別な関係を築いてきたのが、新しいファンによる「不公平」との苦情で萎えてしまった。もうひとつは、そのアイドルの活動の有料コンテンツが増え、全て追えなくなったということだった。

最後の会話は、Mが亡くなる一週間ほど前で、Mの話と言えば「この世での役割がわからない」という不安と「天国にはいけそう」という確信を伝えていた。なんでかはわからないけれど、「僕らはどっちかが死んぢゃったら寂しくて耐えられないだろうな」なんていう話をしていた。私は、Mが「自宅待機」の世界に興味を無くしていると感じた。


Mの死に顔を見た時、私は彼の生死が、牧師や私や他の「誰かのための」のMとして再構築され、あたかもそれがMだったかのようにされてしまうのではないかと思った。「純粋で、無垢で、完璧ではないけれど、敬虔なクリスチャンでした。」そんな風に。

亡くなる前の数年間、Mは「誰かにとってかけがえのない、唯一無二の人物になりたい」と願い続けていたと思う。

私にとってのMの重大さを十分に彼に伝えられていたのかはわからない。けれど、彼が私にとって「唯一無二の人物」であると同時に、ある時代のある問題を生きた人であったことを示す方法はある。私は、Mについて書きはじめた。


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