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スピノザゆかりの地めぐり(オランダ)

バールーフ・デ・スピノザは、アムステルダム、ライデン、ハーグに住んでいた17世紀の哲学者で、「デカルトの哲学定理」「神学政治論」「知性改善論」「エチカ」「国家論」などの著作があります。私は、大学生のときに「知性改善論」から入って関心を持ち、キリスト教家庭で育ったこともあって「神学政治論」での独特且つ丁寧な聖書解釈に感銘を受け、初めてまともに自分の人生について考えた1年間に「エチカ」にはまり、結局専門でもないのにスピノザの著作とスピノザ関連書籍が本棚に並んでいるという状況になりました。自分自身も研究者になった今では多少批判的にスピノザのテキストを読んだりすることもあるけれど、やはり自分を調整したい時、「エチカ」(別の時はマルクスの「資本論」)を開いて数ページ読み、それから仕事に入ったりします。

去年の7月頃、学会でオランダのライデン大学に行く機会がありました。わりと過密スケジュールだったけれど、航空会社の手違いで飛行機に乗れなくなり、次の日までのホテル代や食費を払ってくれるというので、一日空きができました。せっかくだから、私が愛する哲学者、スピノザ先生ゆかりの地をめぐることにしました。ちなみに、4日間に渡ってライデン大学にいたのだけれど、ライデンでは道に迷い、ライデンのスピノザ宅には行けずじまい(笑)主に日本、シンガポール、フィリピンにいる人間としては、オランダの交通事情は複雑すぎて理解するのに数日かかりました。

最初にアムステルダムを歩き回ることにしました。電車などの待ち時間に読むことにしたのは、ムルタトゥーリの「マックス・ハーベラール」(スピノザじゃないのかいと言われそうw)。19世紀後半のオランダ植民地政策の変更、インドネシア独立運動への思想形成につながった小説。端的に言えば、オランダ東インドの植民地支配と現地の権力の癒着や汚職、「原住民」のかわいそうな状態をすっぱ抜いた作品です。単に東南アジア研究者として、オランダでマックス・ハーベラールを読みながら歩きたかっただけなのだけれど、「ムルタトゥーリ読んでるの?」と住民たちににけっこう話しかけられた。オランダ人たちにとっては親近感のある著者のようです。

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アムステルダム

アムステルダムで真っ先に探したのが、若き日のスピノザが生活し、後に追放されたポルトガル系ユダヤ人街。地図見ながらセントラール駅から15分-20分くらい歩いたら見つかりました。まあ、電車に乗れば歩かないで済むのだけれど、料金が高いし、歩いたほうが楽しいから歩く方をおすすめ。

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ユダヤ人地区の中の道がこんな感じです。民族集団で居住地区を作ってる場所で、この地区だけ周りと少し雰囲気が違います。第二次大戦中とか、ドイツ軍の観点から見ればユダヤ人見つけるのは簡単だったはず。スピノザみたいなラディカルな思想をやっていたらコミュニティー内でかなり浮いただろうと思いました。

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↑ポルトガル系ユダヤ人の歴史博物館。休館中で入れず。

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スピノザヲタクなら気になるのが、おそらくスピノザを追放したシナゴーグ。上の写真が今のシナゴーグです。でも、昔の地図を読んだ感じだと、もう一つ北の区画にシナゴーグがあったように見えるから、当時はここじゃなかったのかもしれません。

ユダヤ人居住区から西に3-5分歩いて行くと、新しく建てられたアムステルダムのスピノザ像があります。若めの顔に作られていて、マントがかなりファンタスティック。通り魔に刺されかけたというエピソードがあるから、マントの背中側に穴が空いていたらもっと面白いのに。さすがにアムステルダムから追放されただけあって景色の中でじゃっかん浮いておられます。サンテグジュペリでいうところの地球に降り立った星の王子さまのよう(笑)

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アムステルダムのスピノザ像を建てた時はハーグとアムステルダムで揉めたらしい。アムステルダムがハーグのスピノザ像を移して欲しいと主張して、ハーグに「スピノザを追放したのに今度は返せというのは都合が良すぎるだろ」というようなことを言われ、結局新しいのを建てることになったそうな。

この地域を歩いてみて、川と海の水脈で世界中と繋がっていることを感じました。世界で一番古い株式会社のひとつオランダ東インド会社が設立されるのが1602年(もうひとつはイギリス東インド会社)で、その後ポルトガルやスペインを圧倒してアジアにこの会社が進出し、西洋勢力の間ではオランダがアジアでの覇権を得ました。アジアとの貿易で巨万の富がアムステルダムに入ってきたのがスピノザが生まれ育ったころ。スピノザの思想は、17世紀のオランダの世界進出と共にコスモポリタンな環境で育ったんだと思いました。スピノザの家庭も裕福な貿易商だったわけだから、おそらくこうしたアジアとの貿易とも無縁ではないでしょう。

スピノザ像から2分くらい北に歩くと、レンブラントの家があります。

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↑レンブラントの家、とその隣↓

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土屋家は両親ともに芸術系で、私は芸術に対してはいろいろと愛憎関係があります。ですが、強いて好きな画家を言うなら、子供の頃はレンブラントが好きで、ワシントンの美術館でゴッホの自画像を観た後はゴッホが好きかもしれません。両方オランダ人です。

福岡伸一先生のフェルメールに関する本で、レンブラントとスピノザの居住地が近所だということが書いてあったけれど、本当に近いです。徒歩5分以内の範囲。スピノザが当時最新の光学レンズを作っていたこと、フェルメールやレンブラントが光に着目した画家だったことを考えれば、仕事上の付き合いがあってもたしかに全然おかしくない。

この辺を見て満足したのだけれど、他にもアムステルダムでいろいろ見つけたから載せておきます。

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↑ムルタトゥーリ像。「マックス・ハーベラール」の冒頭に、ムルタトゥールの分身であるマックス・ハーベラールと出版社の編集者がアムステルダムの南側からセントラールの方に向かって歩いて行き、編集者が娼館などがある地域に消えていくというシーンがあります。現在そのルートには、アンネ・フランクの家やデカルトの家もあります。アンネ・フランクの家は歩けばすぐ見つかるけれど、デカルトの家はちょっと難しい。位置はわかったけれど、確信が持てず。

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↑しょうがないから、アムステルダム公共図書館にてデカルト先生と。

アムステルダムは、他にも小さい地域に観光名所的なところがたくさんあるので、行ってみると面白いです。あと、そこらじゅうでマリファナの匂いがします。「おっと君、においがアムステルダム」(Zeebra、”Touch the Sky"を参照のこと)。私は吸ったことがないのですが、一緒にライデンに行った先輩の研究者たちが「これはマリファナのにおいだよ」と教えてくれました。

ハーグ

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アムステルダムから電車で30-40分くらい。あまり長くいられなかったのだけれど、ハーグはとてもきれい、どちらかと言えば静かなところ。そしてスピノザゆかりの地がたくさんある。

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まず、ヤン・デ・ウィット広場。ヤン・デ・ウィットは、17世紀の共和派の指導者で、スピノザ先生のパトロンだったと言われている人です。最後は、王党派に煽られた民衆によって殺害されます。

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デ・ウィット兄弟の家と、殺害現場になった家の入り口。スピノザは柔和な人として知られていたのだけど、一度だけ人前でぶちきれたというエピソードがあります。それがデウィット兄弟の殺害を知ったときで、このデ・ウィット兄弟の殺害現場に「究極の野蛮」と書いたバナーを張りに行こうとして友人たちに止められたとか。

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デ・ウィット兄弟の家から徒歩15分くらいですかね。スピノザの家があります。彼の著作のほとんどはここで完成されたと考えられています。生前署名入りで出版されている唯一の本、「デカルトの哲学定理」には「アムステルダムのベネディクトゥス・デ・スピノザ」と署名があったはずなのでそこまでがアムステルダムですかね。ハーグは文章を書くにはとてもよさそうな環境です。

ちなみに、スピノザ先生は、結核で亡くなったそうなのですが、亡くなるまで喫煙者だったらしいです。当時、葉巻の害悪ってあまり知られていなかったのかなぁ。あまり健康に悪いことをやらなそうな哲学なので、地味に私はその辺を疑問に思ってます。

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↑ハーグのスピノザ像。アムステルダムのスピノザ像が風景から浮いてるのに対して、こちらは造形もいいし、周りの風景に馴染んでます。

スピノザの家には、事前に管理してる人たちにアポイントメントを取れば入れます。後、隣の家にスピノザ関連のお土産屋がある。スピノザの家の隣でお土産屋やってるだけあって、店長もスピノザヲタクでした。「僕大ファンなんです」というアピールをしたところ、全品半額で売ってくれました。

ちなみに、この時「マックス・ハーベラール」を右手に持って話していたのだけれど、これがきっかけでお土産屋の店長がかつてのインドネシア総督の子孫だと話してくれました。オランダとインドネシア、思想史と植民地主義には、いろいろつながりがあって面白いのだけれど、許可を取ってないのでここでは彼の写真などを載せられません。この店長に「スピノザのお墓の位置がよくわからないのだけど」と言ったら、新教会の裏庭にあると言って道を教えてくれました。

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↑こちらハーグの新教会。スピノザの家から7-8分くらい歩いてみつかりました。

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↑裏庭にてスピノザのお墓を発見。この土の下にスピノザの骨が安置されているよ、という旨のことがラテン語で書いてあります。

スピノザは、ユダヤ人コミュニティーから追放されているし、死後ほぼ全ての著作がカトリック教会の禁書目録に入りました。けれど、晩年は日曜日にこの新教会の礼拝に来ていたっていうエピソードもあります。彼が軋轢を持ちつつコミュニティーと関わり続けていたというのは、一見孤高に見える彼の思想を群衆や社会から乖離しないようにしている重要な要素です。この辺が、ジル・ドゥルーズが「ニーチェの思想は、スピノザで補完されるべき」という主旨のことを言っているゆえんですかね。

私にとってスピノザの著作って、常に手元に置いているくらいお気に入りなのだけれど、彼が生きた場所の特殊性をオランダに行くまでイメージできませんでした。だから、学会のついでだけど、アムステルダムとハーグを歩けたのは生身の人間としてのスピノザの人生を理解するのにとても役立ちました。

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