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【読書】人生の段階/ジュリアン・バーンズ

死が最愛の人をさらう。
その瞬間から、毎朝目を覚ますことが、生きていくことそのものが壮絶な試練になる。
「不在」の影を、常に隣に感じながら生活を送ることになる。

「人生の段階」

本書は、著者のバーンズが、妻の急逝から5年後に著した作品だ。
悲嘆にくれるというよりは、どちらかというと淡々とした、抑制的な語り口でつづられていた。
だが、その語り口からはかえって、破滅的な衝動と紙一重のような危うさが感じられた。

◇◆

本書は、歴史・フィクション・手記の三部から構成されている。
本来結びつかないはずのものの結びつきと、それがもたらす変化のありようが、作品全体をつらぬく要素になっている。

第一部では、気球の発明をめぐる歴史的エピソードが語られる。二つのアイデアの偶発的な組み合わせによって、世の中が変わる。産業が文明が、誰も目にしたことのない風景にむかって着実に歩を進める。

第二部では、男女の出会いを中心としたフィクションが描かれる。思いがけない出会いによって、目に映る世界の色彩が、手触りが、奥行きが変わる。互いへの信頼と愛情が、それまで想像もしなかった高みにまで自分たちを運んでくれる。
だがそれは、一緒になる前の状態をもはや想像できなくなることを同時に意味する。

第三部では、著者が妻を亡くした後にたどった悲痛な日々への回想が綴られている。
死によって繋がりが突然絶たれたとき、残された一人は、想像を絶する悲しみを経験する。大切な相手との関係がもたらす幸せな自己変容は、その相手を亡くしたときにおちいる自己喪失と不可分なのだ。

著者は、妻のパットを脳腫瘍で失った。診断後わずか37日のことだった。
突然の宣告と、急速な病状の悪化。驚きと失意のなかでなす術もなく、日ごとに衰弱していく様子をただ見つづけるほかなかった。

◇◆

死別の悲しみに対して、人はおそろしく無防備である。
いずれ避けては通れないことだといわれても、それはあくまで観念の域を出ない。自分の肌感覚とはとうてい結びつかない。

狼狽と拒絶、あらゆる物事への関心の減退。ある時期には、周囲からの同情や心配をなじり恨んだこと。またある時期には、自分や世界を責め、自殺が繰り返し脳裏をよぎったこと。

孤独による痛みは、いつも正面から襲いかかるとは限らない。予期しない瞬間に不意に、細く硬い糸で喉元を締め上げるようにやってくる。

昔の習慣を再開しようとするたびに、以前は当たり前のようにいたパートナーの不在を思い出す。生前に一緒に通っていた道にさしかかるたびに、もう隣に居ないことを突きつけられる。
新しい習慣を作る努力を、あるいはいつもの道を迂回する試みをしたところで、その動機の中にすでに孤独を抱え込んでいることを認めざるを得ない。

著者は当時の状況を、以下のように綴っている。

悲しみは人間的な状態であって医学的な状態ではない。悲しみを-ついでに何もかも-忘れさせてくれる薬はあるが、治してくれる薬はない。
むしろ、夜より昼をどう乗り切るかが問題だった。私の場合、何かをするというのは、たいてい妻と一緒にすることを意味していた。独りで何かをすることもないではなかったが、それは半ば、あとで妻に話して聞かせる楽しみがあったからだ。

しかし、痛みを痛みとして受け止めつづけるうちに、やがて静かな「抜け出す」ときの感覚が訪れる。
思い出の残る景色を、ただ無数の風景の一つとして、記憶の出現に押しつぶされることなく見つめていることを自覚する。

本書はその意味で、著者が悲しみの底から少しずつ脱し、日常を取り戻すまでの過程でもある。

このことは、読み手に一つの助言を与えてくれる。
苦しみの居場所を特定し、対峙しつづけるプロセスが、その苦しみから抜け出すための道筋になるということだ。

つらい体験をして、自分自身が足元から崩れさていくような思いに苛まれることがある。これから一生立ち直れないのではないかとさえ思えてくる。
しかし、もしそれが避けられないことだとしたら、自分にできることは何か。

それは、この筆録が語るように、ひとり静かに深みに降りていき、暗がり中でじっと悲しみと向き合うことなのかもしれない。

mie


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