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青い空まで飛んでいけ


あの日見上げた夏の空は、本当に広くて、とても遠かったのを覚えている。
だけどその頃は、なぜかそこにも簡単に手が届く気がしていたんだ。

「準備はいい?……それじゃ、3、2、1、発射!」

彼女の合図とともに僕がスイッチを押し込むと、ペットボトルのロケットは勢いよく水を噴出しながら空高く宙を舞っていった。
キラキラと日差しに煌く涼し気な軌道を描き、どこまでも広がる青い空に果敢に挑んでいく。


河川敷で一人、ペットボトルロケットを飛ばしている女の人に出会ったのは、ある夏の日だった。

その日は小学校のプール帰りで、全力で泳ぎまわった後の少しだるさが残る体を炎天下の中引きずって歩いていた。少しでも日差しの暴力から逃れようとバスタオルを被って河原の土手を歩いていた僕が偶然見かけたのは、音を立てて空に舞い上がるペットボトルと、それを見つめる一人の女の人だった。女の人と言ったけれど、それは当時の僕から見て大人の女の人に見えただけで、後になって考えてみると多分高校生くらいだったんじゃないだろうかと思う。

小学生の男子にとって、ペットボトルロケットなんて魅力的なものを見れば、思わず駆け寄ってしまうのは当然だろう。

「なにやってるんですか?ロケット?」

僕は土手を駆けおりた勢いのままに女の人に尋ねていた。彼女は突然現れた男の子に驚くこともなく、にこやかに答えてくれた。

「そう、ペットボトルのロケットを飛ばしているの」
「凄い!ねえ、僕もやってみたい!」
「いいよー。じゃあまずあっちで水を汲んできてくれるかな。その間にお姉さんは飛んでいったロケットを拾ってくるから」

女の人が指さしたのは河原の脇に設置されている公衆トイレの水場だった。
差し出されたポリバケツを受け取ると、僕はさっきまでのだるさをすっかり忘れて、走って水を汲みに行く。
何の考えもなしにバケツの縁いっぱいまで汲んだ水の重さに体のだるさをちょっと思い出しながら、それでも楽しみの方が勝って勢いよく水をこぼしながらバケツを彼女の所まで持っていった。

先んじて透明なロケットを回収していた彼女はポリバケツから水をロケットに半分ほど入れると、自転車の空気入れを使ってさらに空気を押し込んでいく。道端に落ちていたブロックを立てただけの簡素な発射台にロケットを設置すると、「じゃあ、今度は君がスイッチを押してみて」と言って発射スイッチを僕に指し示す。

彼女の合図とともにスイッチを入れると、水と空気をまき散らしながらロケットが勢いよく夏空に向かって発射された。それはとてもわくわくする光景だった。

それから僕はボールを追いかけまわす犬のように飽きることなく、何度も何度も繰り返しロケットを夏の空に打ち付けた。彼女も笑いながら僕に付き合ってくれた。その笑顔は今にして思えばどこか陰を湛えていたのだけど、その時の僕はひたすらロケットを飛ばすことに夢中になっていて、愚かにもそれに気づくことはなかった。

長いと思っていた夏の日は、楽しい時に限って驚くような速さで僕を追い抜いていく。

「これで最後にしよっか」

彼女はそう言って、その日一番長く空気をロケットに詰め込んだ。
彼女の合図と共に、ロケットの発射スイッチを入れる。
最後に発射されたロケットはその日行われた無数の打ち上げの中で一番高く、遠くまで飛んでいった。

ふと見ると、彼女は一人、ロケットの軌跡を追いかける様に顔を上げて静かに佇んでいた。ロケットが推進力を失って落下すると、それに合わせて下を向き、俯いたまま体を震わせている。
僕は体を駆け巡る嬉しさが穴の空いた風船のように、一気にしぼんでいくのを感じていた。

「ロケットみたいに、この空のずっと遠くへ飛んでいけたらいいのにね」

それは独り言にも思えたし、ここにいない誰かに言っているようにも取れた。少なくともその言葉を向けられているのは僕じゃなくて、たまたま風に乗って僕の所に聞こえてきただけなのが、なぜだかとても悔しかった。

今にして思えば、あれが僕の初めての恋だったのかもしれない。
今日会ったばかりの彼女を守ってあげたいと思った。あの時ほど、早く大人になりたいと思ったことはなかったかもしれない。
目の前の彼女を世の中のすべての嫌なことから守れるくらいに大きく、強くなりたいと思った。

それがとても困難なことを理解するには、その時の僕はあまりに幼すぎた。

日が落ち始めて辺り一面が赤く染まっていく中、黙ってペットボトルのロケットやポリバケツを回収した後、彼女は驚くほどあっさりと「じゃあね」と一言だけ告げて去って行ってしまった。
僕はその時になって初めて、彼女の名前すら聞いていないことに気がついたけど、彼女の姿は夏の夕暮れに溶けてしまったかのようにもうどこにも見えなかった。

その夏の日の出来事は、言ってしまえばそれだけの事だった。
長い長い夏休みのたった一日。
でもそれは僕にとって、奇跡のような一日だった。




それから長い時が過ぎ。

あの日河川敷でロケットを飛ばした僕は、その時の感動をいつまでも忘れられずに宇宙航空関係の大学に進み、大学を卒業した後は民間でロケットを作るベンチャーを立ち上げた。

勢いと情熱だけに任せて立ち上げた会社だったけれど、志を同じくする仲間に恵まれてどうにか資金も場所も確保することができ、実際にロケットを飛ばすところまで持ってくることが出来た。
もちろん簡単に成功するわけがない。
失敗と挑戦を何度も何度も繰り返した。
1回目の挑戦は人の背の高さにも届かない散々なものだったけれど、要因を分析し、改善策を講じ、地道にロケットの改良を重ねていった。

これが9回目の挑戦だった。
それは奇しくもあの時の僕の年齢と同じ数字。
我知らず震える手を押さえて、合図と共に発射スイッチを入れる。


「3、2、1、発射!」


高度計の数字は止まることなくぐんぐんと伸びていき、ついに高度100Kmを表示した。そこは目標としていた宇宙空間。

青い空を遥かに飛び越え、僕らの作ったロケットはついに宇宙まで到達した。

ロケットの制御室には地元のTV局の生中継を映したテレビも置いてある。
発射場近くの見学スポットには全国各地から僕らのロケットの成功を期待して大勢の人たちが集まってきてくれていた。みんながロケットの軌跡を目で追いかけて一斉に沸き立っている。

横目で見たその中継にちらりと映った人影に、僕は視線を奪われた。

ロケットの発射が一望できる丘の上、沸き立つ人たちの中で、女性が一人静かに佇んでいる。その人はただ静かに、あの時と同じようにロケットの軌道をじっと見つめて涙を流していた。

今度は下を向かず、ただ空だけを見つめて。

その姿はすぐにカメラから消えてしまったけれど、それは確かに彼女だった。


―――見ていてくれた?僕はやっと、あの夏の空に届くことが出来たよ。


欣喜雀躍するスタッフに体のあちこちを威勢よく叩かれながら、涙を隠して外に出る。


制御室を出て見上げた夏の空は、本当に広くて、遠くて。
ロケットの軌跡は、夏の空を貫くようにただひたすら真っすぐに伸びていた。


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きさらぎみやび
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