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春霞

上履きのままで、体育館に足を踏み入れる。
きゅっ、と靴底のゴムと床のワックスがこすれて音を立てる。
紅白の幕に覆われた体育館はいつもと違ってすまし顔だ。

少し浮き立っているような、緊張しているような空気の中で、
卒業式は淡々と進んでいく。

ひび割れたマイクの音、卒業生一人一人の名前を告げる先生の声。

すすり泣く声があちこちから聞こえてきて、
つられた私は目尻に水玉を作る。
こっそりと指先でそれを拭って、ちらりと横を向く。

隣の彼は、こんな日だっていうのに少し寝ぼけ顔で立っていた。
いつもの横顔。ずっと見てきた横顔。

……これから先は、見られなくなる横顔。

彼は遠くの大学に進学して、この町を去ってしまう。
私とは、ただの仲のいい友達のまま。

それは、やだな。

卒業式が終わって、皆が抱き合いながら思い出を語りあう中、
私は必死に彼の姿を探す。
部活の友達と名残惜しそうに語る彼はやっと寂しそうな顔を見せていた。
私は彼に話しかける。

言え、言ってしまえ。

心の中でもう一人の私が叫ぶけれど、
塗り固めたように閉じてしまった私の唇は
どうしてもその一言を告げてくれない。

なんとか彼の出発の日を聞き出すのが精一杯だった。

見送りに行ってあげるから感謝しなさいよ、
強がりながら彼に告げて、卒業式の日は暮れていった。

私は家のベッドでこれまでの日々を
頭の中の引き出しから引っ張りだして一面に並べる。

思い返せばきりがないくらいの大切な思い出たち。

花筏を二人で渡った春の日。
涼しげな白い月を二人で見上げた、蒸し暑い夏の日。
図書館までの道のりを、銀杏の落ち葉を踏みしめながら、
二人で歩いた秋の日。
冬晴れの空からはらはらと舞い落ちる風花を、
二人ではしゃいで追いかけた、肌寒い冬の日。

季節は巡って、また春が来て。
今このとき、霞む空気の向こうに彼がいる。

駅のホームにはたくさんの人がいて、
それぞれの出会いと別れを繰り広げている。

私は小走りで彼のところまで駆け寄ると、
向こうを向いていたその背中を思い切り蹴飛ばした。

なんだよいきなり、とまるで教室にいるみたいに
自然に彼がこちらを向いていつもの軽口をたたく。

良かった、いつも通りだ。
いつも通りでいられてる、よね?
自分に問いかける。

わずかに残された彼との時間は、あまりにも少なくて、
大事なことはなんにも話せないまま、その時が来てしまった。

私はホームに立ち、電車に乗り込む彼を見つめる。
ちょっと油断するとあふれてしまいそうになる涙を、
ぎゅっと手を握りしめて必死にこらえる。

乗り込んだ彼はゆっくりとこちらを振り向いた。

ずっと隣で見つめてきたその顔を、私はいま正面から見つめる。

勇気がなくて言えなかった言葉を、今ここで。
唇は自然と動いていた。

「好きだよ。大好き。」

つぶやいた言葉は無情に春の風に持って行かれてしまう。

あっけなく閉まるドア。

変わりゆく季節と彼を乗せて、電車は遠ざかる。
去って行く電車を、春霞が覆っていく。

春の風が吹く。
線路の脇で咲き誇る桜並木から一斉に花びらが散らされる。

桜の花びらたちは宙を舞い、
そのまま私の涙を一緒にさらっていった。

私の涙はどこへ行くのだろう。
彼の辿り着いた町で、雨となって降ってくれればいいのに。

そんなことを思いながら、
私はホームで一人、おぼろげに霞む春の空を見つめていた。


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