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"ルール"が世界を面白くする

世の中には数多くのゲームがある。
サッカー/ラグビー/テニス/バスケ/ボルダリング の様なスポーツ。
ポーカー/ババ抜き/大富豪/モノポリー/UNO の様なボードやカード。
PS4 / Switch / PCゲーム の様なエレクトロニクスゲーム。
ジャンルやその性質は違えど様々で多岐に渡る。

これらに共通するものは何か。
そう、どれも必ず「ルール」があるということだ。

「ルール」。
それは言い換えると、「禁じ手」や「制限」。

「制限」とは不便なものであり、通常、世の中の嫌われ者として知られる。
当然これはネガティブなものであり、無い方がいいように思われる。


しかしどうだろう。
何故ゲームが面白いかと、何故あれほど人々を熱狂させるのかと考えてみると、その本質は《 そこに「制限」が、「ルール」があるから 》と言うことに他ならないのではないのだろうか。

もしババ抜きに "最後にババを持っていてはならない" というルールがなければどうだろう。それはただのカード交換会である。
もしマリオが "敵に当たっても穴に落ちても死ぬ" ということが無ければどうだろう。それはただ横移動するだけの等速直線運動である。
もしバスケが "ドリブル不要" であれば、それはただの力による玉の奪い合いである。

もちろん時にはルールを、制限をあえて破ることで、そこに新しい価値が生まれる事もあるだろう。かつてサッカー中に少年が手を使ってボールを持ち、駆け出したことでラグビーというものが出来たように。
しかしながらそれはルールが変わり新しくなっただけであり、そこに制限は、ルールは必ず存在する。
なぜならその不自由さこそが人々の頭を悩ませ、技や腕を磨かせ、その枠組の中で何かを達成した時に我々を熱くさせるからだ。

そのように考えてみると、「ルールや制限、障害や障壁」といった類のものは単純に忌み嫌うべきだけのものではないのかもしれない。ソレに条件反射的にネガティブな印象を持つのは《食わず嫌い》で、ソレはむしろ我々を熱くする《デザート》なのかもしれない。

私は大学卒業を目前に控えた冬、友人の代わりにアルバイトに行く途中で事故に遭い足を失った。そしてその後は一生車椅子という制限を強いられた。しかしこれを「制限」ではなく「ルール」と捉えた時、そこに新しい攻略すべき面白いゲームが私の心の中に誕生したのかもしれない。

まる。


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