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反抗期がなかった俺が26歳で精神的自律に目覚めたわけ 前編

0.まえがき

大切に大切に育てられた結果、目立った反抗期もなく、肉体的にも精神的にも自立が見られず、いい子ちゃんで年齢ばかり大人になってしまった山田青年。「俺はいつになったら、大人になれるんだろうか」とかもやっと思いながらも、自分のレールを自分で引くなんてただのわがままだろうと一蹴し続けた。

しかし、ある大学教授の言葉を皮切りに、自分が満足する人生への興味関心が、溢れ出してしまう。

波風立てずに生きることをモットーにしていた山田が、少しずつ自分の波を起こしていく勇気と涙と葛藤の鬱憤ばらしストーリー。沈黙して溜め込んでいた分長くなるけど、付き合ってくれよな。

ではいこう!

1.大学教授の言葉

この人生で自分がぱっかーんと開いたのは大学4年の時のこと。卒論がなかなか書けずに困っていた僕にゼミの教授がかけた言葉だった。

教授に卒論を見せに行ったある夕方
ーーーーーーー
T「これじゃ本の要約にしかなってないよ。あなたが言いたいことは何?」

山「えっと、この本の筆者って、僕よりずっと長い時間研究してこの文章を書いているんですよね、? そこに自分の意見を述べるなんてできないです。というかなにも思い浮かばないです。」

T「山田くんは権威主義だね。」

山「権威主義??」

T「そう権威主義。偉い人、目上の人が正しいとする行動様式のこと。でも卒論あはあなたの文章だから、、、

はいカットーーー。

このあと、山田の人生を揺るがすその天変地異ワードが現れる。

その当時の山田にとっては、途轍もないど迫力稲妻が頭の上に落ちて、それまで積み上げてきたあらゆる価値観という価値観がことごとく崩れ去り、奈落の底に落ちていくお世話になった礎たちの代わりに虹色の遊園地がとんでもない爆風とともに一瞬にして崖の底から出現した名台詞。

「22年間生きてきた山田博揮で書いていいんだよ」

え、そんなこと?って内容だけど、山田としては、今聞いてもちょっぴりシビれる。

山「あ、え?いいんだ?ん?いいのね?」

振り返ると、「そんな誰かの許可待ってんじゃねえよ」ってビンタしたくなるほどそのうじうじ感がキモいが、その時は聞いた瞬間になんだか体の力がふぁああっと抜けて、本当に脳みそがぱっかーんって開いて、卒論という枠を超えて、この先どんな未来が待ってるんだろう!?何して生きよう!?自分には一体どんな可能性が眠っているんだろう!?っていろんな想像がやまなくなってムフムフした。

このあと光の速さで卒論を完成させたのは言うまでもない。

が、しかし、ふとカレンダーをみると、そこには大学生活が3ヶ月しか残されていなかった。

友達と遊んで、旅行に行って、引越しの準備をしていると、そんな3ヶ月は僕が卒論を書き上げたスピードよりもはるかになめらかに過ぎ去った。

そして蓋をあけるとそこには、脳みそぱっかんする前に受かった小学校教師への道が続いていた。


2.再びの脳内遊園地へ

せっかく姿を現した脳みそ虹色遊園地がスススーっとあの崖の底へと何事もなかったかのように沈んでいくのにそれほど時間はかからなかった。

つい何日か前までは飲んで遊んで卒論書いてたしがない大学生がいきなり34人を前にスイミーを教えるのである。

給食の配膳の仕方さえびっくりするほどわからず、時間と頭脳と体力をカッツカツになるまで使ってもなお、全く”教育”と呼べるものには到達していないと感じる現実を前に、そんな虹色遊園地は、ちょっとした出来心だったんだなと自分のことを鼻で笑ったのだった。


教師2年目の冬。ようやく教師の右と左、いや、表と裏がわかって、それなりに余裕が出てきた頃。

港町を市役所の担当のおっちゃんとともに腕章をつけて練り歩く”補導”に行っ(かされ)た。もちろん平日夜の田舎の港には、釣りを楽しむおっさんくらいしかおらず、毎度つまらん1時間半の散歩だ。

そんな退屈アワーに光明が。その日の補導は前からなんか話してみたいなーと思いながらも機会を逸していた同期の男性教員が一緒だったのだ。いい喋り相手になるなと思って、ワクワクしながら話しかけた。切れ長の目が印象的なその優男と打ち解けるのに時間はかからず、たわいもないことで話は弾んだ。

散歩の半分が終わった頃、海の見える階段を下りながら突然彼が言った。

男「俺仕事やめるんだ。」

山田「what(ふぁっ)!?」

思わず英語だったと思う。そうでなかったとしてもまるで頭の中の言語が入れ替わってしまうほどの衝撃だった。

待て待て、君はcorm inだろう?あの安定の代名詞コームイン。たとえ万が一世界にウィルスが蔓延して経済がストップしたってお金に困ることはないあの公務員だろう?なんならまだ2年目だぞ!?苦労して得たその立場をこんな早々自ら退くなんてことがあるのか!???お前は一体何者だ!?!?!?

頭の中がその男への興味関心でうっかり腕章をおっさんに返し忘れるところだった。とにかく話が聞きたかった。もう次にいつ会えるかわからない。頼むから話をもっと聞かせてくれ。と、くら寿司へ誘った。

今でも覚えている。
あの夜、俺は1630円で、例の脳みそ虹色遊園地をもう一度呼び戻したのだ。

そうだった。俺は、自分の人生を生きたいと願った日があった。毎朝7時からグランドに三つの大きな円を石灰をできる限り節約しながらいかに早く美しく引けるかなんてことの探求に時間を使っている場合じゃないのだ。

まだジェットコースターにも観覧車にも入場口にだって行ってないじゃないか。

彼は、その当時俺がやってみたいと思っていたことをことごとくやってきた男だった。ワーホリ・アジアへの旅・海外教育現場の視察・日本の教育現場への導入。。。

そして、彼はより大きな世界へと羽ばたくために公務員という職を辞めるところだった。

その時の自分は、ただただ「そんなことして良いんだ。。。」と、愕然とするばかりだった。こんな自分と同じ立場、同じ齢の男がしているんだから、自分にだって何か可能性はあるはずだ。

大好きなシメサバをほおばりながら悔しくて、虚しくて、悲しくて、でも、嬉しくて泣いた。

何をしたいのかはわからない。でも、この生き方は昔の自分に戻っている気がして悔しいし、悲しい。

その日、山田の脳みそ虹色遊園地が再稼働し始めた。


3.お待たせしました反抗期開幕

時は流れ、教師3年目の冬、結局次にどんな職に就きたいとか、どこに行きたいとかいう確かな道も決まってなかったが辞めることだけは決意し、まず校長に話した。

とても驚いていたけれど、あなたの決めたことならと理解を示してくれた。
校長「ご両親はどんな話をしていましたか?」
山田「実はまだ話してません」
校長「ちゃんと話して、もう一度年明けにどうなったか教えてください。」
山田「ひゃい」

ということで、実家に住んでいたこともあり、家族に言わずに仕事をやめるわけにもいかず、勇気を振り絞って話した。

自慢ではないが、前述の通り、小さな頃から権威主義的に生きてきた山田は、目に見える反抗期を通過することなく、波風が立つようなことを家族にいったことがほとんどなかった。

家族の期待に応えることが、人生で最も大事なことだとして生きてきた。

と言えば聞こえはいいが、要はただのクソビビリだった。
自分の意見を話すことで、対立したり、いざこざしたりするくらいだったら自分の意見なんて言わなきゃいいんだと飲み込むことで全部なかったことにして生きてきたのである。

しかし、それでは、結局これまでの山田と変わらない。ワクワクしたことがあっても諦めなきゃならない。「夢は見るものであって、叶えるもんじゃない。」っていうクソワードになぞらえて生きることになるのだ。
もちろん挑戦しなかったら、得られるものはある。それこそ安定した収入、極端な失敗もすることがないだろうから、恥ずかしい思いもなかなかないだろう。周囲から生き方を咎められたり稀有な目で見られることもない。

しかし、そんな人生を歩んだ先、80歳になった自分が、人生に満足しているかと想像したら、答えは完全にNOだった。このまま生きてたら、心は全く安心も満足も知らないまま死ぬことになるだろうと思った。

ここで問題なのは、自分の生き方を本気で変えたいと思ったら、それを叶えられるのは、隣にいる友達でも、もちろん親でもなく、自分自身でしかないということ。加えて、身も心も縮み上がってるクソ男が、何がしたいのかもわかってないのに、公務員をやめると、言い放つのだ。


それはそれは怖かった。


4.中2の夏ってこんな感じ?

言い忘れていたが、自分は両親の入信していた新興宗教に入っていた。その教えに助けられたこともあったようには思うけれど、権威主義的な思想の根本も、その教えからきているものだったことから、正直すごく窮屈だった。

親の意に背く=宗教に背く
と勝手に解釈していた自分もいたことから、怖さは倍増だった。

自分が守られているのは、その神様のおかげ、何かその意に背くことがあれば、自分はおろか、家族、先祖の積んできた”徳”的なものを帳消しにするものだくらいに言われたと記憶しているから、それはそれは怖かった。

自分のせいでみんなにとんでもない迷惑が及ぶのかと思ったら怖かった。
でも、それを差し置いてもなおその人生から抜け出そうという思いが優った。
(先祖ってどっからどこまでが先祖なのよーとか、入信してない人は、なんで元気に生きてるのよーとかも考えたりしてね)


-ダイジョウブ-3回手のひらになぞって飲み込む
近づいてく近づいてく
押し出される ohh oh
近づいてく近づいてく
決戦の金曜日


というわけで、金曜の昼。

両親2人に退職することを伝えた。
自分の思っていること、感じていること、その時の自分が伝えられるだけを伝えた。自分の脳みそがぱっかんしちゃって、そんな自分の期待に応えたいけど、特に何したいか決まってないことも、宗教が、自分にとって窮屈だったことも、俺の中の内なるおじいちゃんが、行けと叫んでることも。

それはそれは向こうからしてみたら、大パニックだっただろう。
順風満帆に育ってきたというか育ててきたその男がいきなり、その全てを投げ出して自分が何者かを探る旅に出るとか言い出しているのだから、平野ノラでも背負いきれないほどのたまげものだっただろう。

もうどんなことを話したか忘れたが、俺の方は、初めて自分が思っていたことをそのまま伝えられて、すっきりしていた。母はそのまま3日くらい寝込んでいた。結局の結局は、自分の人生は自分で決める。ってことで、その3月に仕事を辞め、旅に出た。


今振り返れば、それはまさに山田の人生のDREAMS がCOME TRUE し始めた日だった。

5.前編まとめ 〜タイムトラベラー山田誕生〜

ようやく、自分の人生を生きる準備が整った。
反抗期は、本来の自分を取り戻す通過儀礼のようなもの。
まずは、肉体的な自立を果たすため、西日本への自転車旅、東南アジアのバックパッカーを経た。(その時のログ
現在は精神的、経済的な自立に向けて博多の会社で働いている。

博多の日々は、それまでの人生が本当に序章の序章に過ぎなかったのだと思い知らされるほど、雪崩のように生きている。

博多での新たなる始まりは衝撃的で戸惑った。こんなことを言ったら引かれるかもしれないが、前世が見えたのだ。

その瞬間は、本当にうっかりな瞬間に訪れた。
ある日、仕事の一環で代表のアッコとともに古民家のリフォームの仕事をしていた。採寸までしていたのに、パーツがいまいちハマらない。

うんざりしたアッコが拗ねて寝っ転がって窓の外を見た。

しばらく休憩していると、アッコが泣き出した。

話を聞いていると、こんな青い空を見ながら鳥の声を聞くことなんてずっとなかった。なんのために生きてるんだろ。って。

いやー、そりゃしんどかったねアッコ。

気持ちに寄り添うと、また泣いていた。

とりあえずもう少し休憩しよう。となって、俺も寝転んだ。

しばらくすると、アッコが言った。

「なんかさ、私今星空が見える。」

もちろん目の前は古民家の古びた天井である。

がしかし、待ったく同じものを俺も見ていたのである。

「木がこの辺にあって、草の高さがこれくらいで、周りの景色は・・・」

まるでぴったり話が合い過ぎて初めは疑った。

でも、とても話を合わせているようには思えないし、もちろん口裏も合わせようがない。

「あのさ、なぜか妹のような感じがする」

困ったことに俺は兄の感覚をありありと感じてしまったのだ。。。

後編へ続く

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