SS【匂い】#シロクマ文芸部
お題「愛は犬」から始まる物語
【匂い】(1163文字)
愛は犬の匂いがするのよ…と妻は言った。
その声は雨音と重なって音楽のように聴こえた。
犬の匂いか…濡れた子犬の匂いってワインがあったけど、犬の匂いのワインなんて飲みたくないな。…思ったことは声に出ていたらしい。
妻が答える。
犬と子犬は違うのよ、穢れのない子犬の匂いだもの。
妻が抱きしめているのは、子犬どころか病気で寝たきりになり汚れきった老犬だ。老犬から発せられる匂いが部屋にこもって、僕はさっきから吐きそうになっている。
二十年、一緒に暮らした。愛情がないわけではない。それなりに可愛がってきたつもりだ。でも僕はなんとか口実を作ってこの部屋から出ることばかり考えている。
そういえば、妻はさっきなんて言ったっけ。…あいは犬の匂いがする?『あい』って、愛か。こんな澱んだ匂いが?僕はとうとう耐えきれずに立ち上がる。
ちょっと煙草を買ってくるよ。
この言いわけを手放したくなくて、僕は禁煙ができずにいる。妻は僕の言葉には反応せず、背を向けたまま老犬を抱いている。
外に出て深呼吸する。やっと息が吸える。しばらく戻りたくない。死の匂いからできるだけ遠ざかりたくて僕は歩き始める。
そもそも犬を飼いたいと言ったのは妻だ。まだ新婚だったから軽い気持ちでいいよと言った。でも本当は犬なんて飼いたくなかった。いろいろと金もかかるし面倒だ。優しいフリをしたのだ。新妻にちょっといいところを見せたかったのだ。
底の浅い寛容。底の浅い愛。底の浅い僕…。
近くのコンビニには欲しい煙草がなかった、という言いわけを考えながら遠いコンビニまで雨の中をゆっくりと歩く。小型犬を連れた若いカップルとすれ違う。二人はひとつの傘に入り手をつないでいる。そういえばいつからか手もつながなくなったな、と思う。自分の手の平を見る。乾いてかさかさで皺だらけだ。
ふと、手の平を顔に近付ける。犬の匂いがする。犬の、死の匂い。死にかけた愛の匂い。どこまでも付いてくる…。
僕はズボンにゴシゴシと手をこすりつける。でも匂いはとれない。そうだ、コンビニで手を洗おう。僕は足を早める。コンビニに入るとトイレに直行する。石鹸をこすりつけ、何度も何度もバシャバシャと洗い流してようやく僕はホッとする。煙草を買い、妻の好きなプリンも買ってやる。ただ手を洗っただけなのに、ひどく悪いことをしたような気がしている。
ただいま。
ドアを開けると目の前に妻が立っていた。僕は少し驚いたが、プリン買ってきてやったよ、と言った。思いやりのあるいい旦那だろうって顔をしながら。また優しいフリをして。
そしてプリンの入った袋を差し出した時、僕の手から微かに石鹸の匂いがした。
妻は袋を受け取ろうとせず、僕の手をじっと見ている。
そして今まで聞いたことのない冷たい声で言った。
…逝っちゃった。
僕は妻の肩を抱く。
妻は死んだ犬の匂いがする。
おわり
(2023/9/9 作)
小牧幸助さんの『シロクマ文芸部』イベントに参加させていただきました。
たまにはこんな話も出てきますねぇ… 愛と死は近しい。
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