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短編小説「絵空飛行」

ゴオォォォォ。

海の泡ってたしか、こんな音だった。うす暗い部屋で空調が海鳴りのようにうめいている。

私は手元をLEDライトで照らしながら、しがみつくようにノートに文章を書き連ねていた。

頭はボワボワと空想を膨らませ、見えない飛行船が天井にいくつも浮かぶ。この暗闇で私はどこのだれであってもいいのだ。

その日の私は魚だった。

カリブ海を泳ぐエメラルドの魚だった。陽の光はうろこに反射して水中で砕け、星屑のようにあたりを照らす。

私は水底の白い泥で体を洗い、顔なじみのウツボとイソギンチャクにあいさつをする。いつもと同じ変わらない朝。

船乗りの男が私を捕まえようとした。私はのびてくるアミをするりとよけて、あわてて岩陰に隠れた。

彼は水中を覗きこみ、私を探している。日によく焼けた浅黒い肌に、海を映したような青い瞳。水面に揺れる彼を、私は不思議な気持ちで見ていたーー。

突然、目の前がパチリと白くなった。

「まだ起きてたんだ」

声の方を振り返ると、ドアの前にパンツ一丁の鴻田(こうだ)がまぶしそうに目を細めて立っていた。

「やだな、ノックしてよ」

私は興醒めしながら、さっきまで思い描いていた映像が消えないようにノートで顔をおおった。

「何回かしたけど。寝てたら風邪ひくだろ」

集中力がとだえ、ため息をついて顔をあげると、鴻田がとなりに歩み寄ってきた。

「舞台の台本書いてるの?」

「ぜんぜんちがう」

思わずとがった声が出たが、鴻田は気にしない様子で「ふうん」と手元を覗きこもうとした。私はあわててノートを閉じた。

「自主制作の絵本だよ。今は構想中だから見られたくないの」

「へえ、色々やってるんだね」

鴻田はさほど関心がなさそうに壁の時計をみた。

「鈴屋(すずや)、明日の通し稽古は午後イチだよ」

「わかってるけど、私まだ作業したいんだ。鴻田、先に寝てていいよ」

「そっか、わかった。まぁ…根詰めすぎるなよ」

鴻田はいたわるように、私の背中に手をあてた。大きな手のひらがじんわりとあたたかい。その感触が私を現実に引き戻して、体をずんと重たくさせる。

田舎にいたころ、私は空想ばかりしている少女だった。ぼーっと空を眺めては物語を書いて、絵を描いて、私しか知りえない空想世界が形になるたびに、自由を得た気がした。

運命が変わったのは、東京の大学へ進学し、バイト仲間に連れられて行った初めての舞台。

目の前に広がる異空間に、私は衝撃を受けた。ここが私の居場所だと確信したのだ。

さらに、そこで準主役をつとめた、ひょろ長い金髪のひとこそが、のちに私の恋人となる鴻田だった。

作りものみたいに長い手脚を投げだし、客席にサイコな流し目をくれた瞬間、「こんな人がいるなんて!」と一気に世界に引きこまれた。

終演後、バイト仲間に先導されて楽屋で会った鴻田は、劇中とはまるでちがう人のように、目尻をさげて柔らかに笑った。それもまたよかった。

私は裏方として、舞台をつくりあげるメンバーのひとりとなった。映画オタクの鴻田もまた、地元になじめず上京した変わり者であり、私たちは同じ空想世界の住人なのだと頼もしかった。

けれど、夢見心地の世界を守ることは決して容易ではない。

「悪いけど…来月締切のコンペに出したいの。今しゃべってたら構想が逃げてく」

机に向き直った私の背中にはきっぱりとした拒絶があった。

ついさっきまで、鴻田と舞台稽古を終えたハイテンションで疲れを癒し合っていたのに。

今はひとりになりたくて仕方がない。なんて勝手なやつだろうと、自分でも思う。

「鈴屋は芸術家だからなぁ。仕方ないか」

鴻田の皮肉めいた口調に一瞬ムッとしたが、頭をかきながら伏せた鴻田の笑顔がさびしそうで、罪悪感に胸がつまった。

身勝手になりきれない私は、創作意欲を断ちきるように頭をふると、きゅっと笑顔をつくる。

「わかった、寝よう。心配かけてごめんね」

立ち上がって、私たちは寝室へ戻った。

昨年、鴻田は一般企業へ就職した。劇団員としての活動は続けているものの、舞台の中心からは遠ざかっている。以前のように、すべてを夢物語にはできない。

一方の私は、単発の文筆仕事でどうにか食いつないでいる。贅沢はしないけれど、空想世界の住人でいられるギリギリのライン。

そして今、寝室に連れこんでしまった飛行船が、私を見下ろすのを困惑しながら見つめ返している。

(ごめんね。今夜はもう旅には出られないみたい。)

鴻田とならんで横になると、外から酔っ払った男女の痴話げんかが聞こえてきた。上の階からは何やら家具を動かしているような物音がする。

ぼんやり天井を眺めていたら、鴻田が私におおいかぶさり、そっと唇を重ねてきた。探るように、私の目を覗きこむ。

視線から逃れるようにまぶたを下ろすと、きらきらと海面が揺れて、魚たちが光に透けたヒレで優雅に泳いでいる。

「鈴屋が描く世界にはもう、オレは必要ないのかもしれないね」

鴻田の声が降ってくる。見ると、舞台で宝石のように輝いていたあのひとが、いま私の目の前にいる。悲しそうな表情がドラマチックで、やはりこの人は最高の役者なのだと思う。

私は鴻田の頬に触れた。背後には色彩豊かな魚群と太陽が広がる。

鴻田が私を抱きしめる。始まるのかもしれない。現実世界の私の輪郭があらわになり、羽をもがれブクブクと溺れそうだ。

(抱きしめないで、私をこの体にとじこめないで。)

つうと水滴が頬を流れた。誰の涙だろう。私ではないのかもしれない。空想世界が行き詰まり、現実世界すら不安定に揺れている。

たがいの熱が、愛が、孤独が、想いが、混ざり合えないまま空中に揺らいでいる。

天井には帰りそこねた飛行船が、ふたりの上をぐるぐると旋回している。

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