パリで惨敗してわかったこと。「写真は言葉」
■嫌な思い出
前回ふれた僕のトーク恐怖症からの流れですが、この時季になると悔しい思い出が脳裏をよぎります。
2年前の今ごろ、運よく写真集の国際コンペにノミネートされたのがきっかけで、一冊目の写真集「Touch the forest, touched by the forest.」を引っ提げて、ルーシー財団のイベントが開かれたアメリカ、パリフォト開催のフランス、そしてドイツを回りました。
「きっとどこかのギャラリーか書店が気に入ってくれる」。何かしらの手土産を得て帰国すると思い込んでいました。しかし結果はゼロ。強いて言えば、世界の厳しさを知ることだけが、自分にとってプラスとなった遠征でした。笑顔で相槌を打っても実は響いていない例は日本人の特質として挙げられますが、外国人も一緒。その場では、関心ありそうにページをめくってくれても、後から連絡はひとつもありませんでした。
パリフォトのメイン会場「グラン・パレ」
■以心伝心という妄想
もっともっと言葉で写真の説明をできた方がよかったと思い返します。そもそも私が写真を始めたのは、言葉が苦手だったこともあります。国語のテストは、いつも設問に理解できず、夏休みの宿題「読書感想文」なんて、読んだ本のあらすじを書く作文だと高校まで本気で思っていました。
大学に入って写真を始めると、簡単にできあがった自分のものを見せられるようになり、しゃべらずとも雄弁になったような気がしました。何かを伝えるのに、文章よりも写真の方が僕には向いていたため、そこに甘えていたのでしょう。感覚でわかってくれと。
しかし海外の人たちにとって、異文化との接触は日常。他社を理解をするには言葉が必要不可欠だと気付きました。たとえば、フランス人がフランス語を使えない人を馬鹿にすると昔よく聞きましたが、逆を言えばフランス語を話せる人は尊重する。それによってコミュニティの枠組みに参加でき、異文化理解を進めるコミュニケーションが成立するわけです。
ちなみにアートに詳しい友人によると、英語が苦手な作家はステートメントを文章にまとめて携帯しているとのこと。同じように悩んでいる作家はいるようです。
写真は100%非言語(nonverbal)の媒体だという妄想をこれによって捨て去ることができました。ドキュメンタリーは言わずもがな。しかもそれは写真集の制作、写真展の構成でも必要なことだと、うすうすわかっていた頃でもあったので、なおさらでした。
パリフォトでつながれたフォトグラファー、マーク・ピーターソン氏と
■伝えるべくは意味でなく、意思と意図
何かを撮って選ぶということは、その背後に意思や意図があるはずで、その言語化をしっかりしておかないと通用しません。ついつい写真の説明=意味を伝えてしまいがちなので注意が必要です。
2冊目の写真集「MOTHER」の本作りも、同タイトルの展示も、かなり意識して挑みました。製造業の現場で感じたさまざまなギャップ。端正な鋼と生命力あふれる溶けた鉄、団塊世代の技術者と若手、高度成長の風景と現在、大企業の製鉄所と小さな町工場、これらは一見離れた存在に見えつつもつながっていることを認識したい。そして高度経済成長の過程で行ってきたオリンピックや万博を、既に先進国であるこの国でもう一度やろうとしている今が、当時を振り返るタイミングとしてふさわしいと考えています。
今回、写真集や展示の構成を一緒に考えていただく際に、最初から細かい並びなどはお伝えしませんでした。その代わりにこの意思と意図を伝えてくみ取っていただくことで、関わっていただいた方々にある程度自由度を担保しつつ、それぞれが納得する作品が仕上がりました(と少なくとも私は思っています)。
写真は言葉であるからこそ、適切な自由度も生まれます。
だから写真はやめられません。
▼予告
次回の投稿は11月13日(水)を予定しています。
今秋発売した写真集「MOTHER」は全国書店の他、以下のサイトでもお求めになれます。
・赤々舎
・アマゾン
・著者ホームページ(限定版・サイン入り)
関連の作品「Hands to a Mass」がニコンの名古屋フォト・プロムナード2で開催します。
2019/11/21~2020/1/20(日曜、祝日は休館)
詳細はこちらです。ぜひお越しください。