ゆだねて、夢を追う1年に - ZaPASS年末合宿振り返り
リトリートから一夜明け、フワーッとした疲れがある。20km歩いた疲れが身体に残っているが、むしろ心地よい(ちなみに木〜日の4日間で、なぜか42.8kmも歩いている)。
「振り返りは鮮度の高いうちに」と思い、ワワワーっと書いていく。
よければ、BGMとしてお聴きください。
ZaPASS年末合宿とは
この土日、ZaPASSのリトリートに参加した。ZaPASSは、私がコーチングを学び、今はメンターをやらせていただき、卒業生コミュニティ(道場)にも参加している大切なコミュニティ。
今回は18人も集まった。対話をベースに、BBQや瞑想、散策、本を贈り合うといった体験を通して、2021年を振り返り、2022年を描いた。
「振り返りは、もう十分なんだけどなぁ」
リトリートのコンテンツを知った時、率直に感じたこと。ありがたいことに、ぼちぼち内省の機会をいただいており、振り返るよりはアクションしていきたい気持ちだった。
だから、ワークよりはリアルで色んな人と会えることを楽しみに参加した。自己紹介では、そんな本音をオブラートに包み込んで、「楽しみたい」と述べた。
でも始まってみると、想像を超えるほどエキサイティングで、そんな本音はどうでもよくなった。
全力で走った
初日の午後、18人の大人が、「だるまさんが転んだ」や「ケイドロ」をして遊んだ。皆と仲を深めながら、大人になって忘れかけている感覚を味わう時間だった。
数年ぶりに全力疾走してみると、スピードはあまり変わっていないが、体力の衰えを感じる。2,3回ダッシュしただけで息切れがひどく、「その辺のおじさんの方がパワフルやなぁ」と。
頭をぶつけた
ある時、皆がジャンプしていたのを見て、自分も飛び跳ねてみた。即座、頭にズシンと痛み。アゴに力を入れていなかったので、強制的に歯と歯がガチッと噛み合わさった。
わたしがいたのは、木の下だった。頭上の枝が見えていないアホさを恥じながらも、「これはこれでいいかな」と思えた。そこには、よく膝を擦りむいていた、子どもの頃とおなじ自分がいた。
大声を出して、ふざけまくった
2日間、何度も大声を出した。ゆうくんや真吾さんなど卓越したボケをされる方が多かったので、乗っかったり、合いの手を入れてみたりした。
もしスベっても、「こいつ、つまんねえな」とヒエラルキーの下に追いやられたりはしない。ノーリスクで安心・安全な空間だからこそできた関わり。
余談。この2年間、大半のコミュニケーションがイヤホン越しになったおかげで、コンプレックスの1つである小さな声量をあまり気にしなくなった。
なので、久々に大きな声(当社比)を出してみると、遠くの人にも届いているか不安になった。威勢のよさは、恐れと共にある。
森のような経営ちゃん
2日目の午後、勝手に「森のような経営ちゃん」を創った。前夜の「本の交換会」で、たけちゃんから頂いた『森のような経営』をクッションの上に置いた作品?である。
例のごとく意図や計画はなかったが、いろいろと気づくことはあった。
ちなみに前身のナニカ。
参加の経緯
2021年を振り返ると、秋頃までずっとファイティングポーズを取っていた。スタートアップよりもコーチングに関心が向き、フリーランスとして独立し、2月にZaPASSに入った。
既存の仕事はほとんどなく、コーチングも未経験だったので、1人で小舟に乗り、知らない海を進むような感覚だった。ZaPASSの同期にも、「大切だけど、一緒に仕事するわけじゃないしなあ」と、どこかで壁を感じていた(つくっていた)。講座が終わった7月以降は、疎遠になる人も多かった。
そんな中、参加させてもらった10月のリトリート。「分かち合い」ってこういうことなんだなぁ、と身体で感じさせてもらえた。
リトリートをきっかけとして、11月からZaPASSの人々と深く関わるようになり、「分かち合う」を探究した。自分の過去の振る舞いが、どれほどエゴいものだったかを自覚した。身近な人たちが贈ってくれているのに、サインに気づかず、全然受け取れていなかったことを痛感した。
コーチとして、色んな方の在り方(Being)を支援をさせていただく身ながら、自分の在り方はぐちゃぐちゃで、それを自覚できていなかった。
今回のリトリートは、そんな反省のような内省をしている時期に参加した。
手綱を手放し、ゆだねていく
リトリートを通して、自分のフェーズが変わりつつあることに気づいた。
少しずつ、「分かち合う」ができるようになってきている・・・!
いまいまで言うと、「ゆだねる」がより近い表現かな。大木も大地の支えなしには立てぬように、自然と人を頼り、任せ、ゆだねることができている感じがした。
それは、「自分のために、人にやってもらう」とは違う質感だった。ゆだねることで、余白が生まれ、自由にアクションできる。そのアクションを通して、なにかを還元できる。そんな循環の中で生きる喜びを感じていた。
2022年を描く
そんな中、在り方(being)に焦点を当てて、2022年を描いた。
この絵(?)は、何かを描こうと思ったわけではなく、描くことから始めた。左脳的に「目的から逆算する」ではなく、右脳的に「行動してみてから意味を見出す」道のり。
選んだ色は、目の前にあったクッションの色だし、5つの長方形は、そのクッションの型をなぞって描いた。描くために素材があったのではなく、素材が描かせてくれたのだ。クッションを「座るためのもの」と決めつけると、その時点で感覚は停止する。
いま振り返ると、あらゆるヒト・モノを「なにか生産するための一機能(歯車)」として捉えるだけでなく、「自分なりの意味を見つけていこうよ」と主張したかったのかもしれない。
無粋かもしれないが、「知りたい」と思ってくれる方には知ってほしいので詳細を説明する。
結果として、下半分は「循環によって成り立つ土台」を表している。5つの長方形は血管のようであり、それらが重なる中心部は心臓のようである。わたしたちは、血管を通して、いろんな想いや価値を贈り合う。
それらのエッセンスは心臓部に集まり、わたしをわたしたらしめてくれる。心臓部があるからこそ調和が生まれ、部分が独立せずに部分として存在することができる。また、自分と他者の境界が曖昧だけど、むしろそれでいいなと思えている。
上半分では、この土台があるからこそ、「2022年は、改めて夢を追いたい」と決意することができた。ここ2,3ヶ月、「共にある」「分かち合う」をテーマとして、人との向き合い方や、自分のエゴを見つめ直してきた。
この道のりは長くなりそうで、なかなか骨が折れるけど、2日間を通して「身近な人たちを頼り、時にゆだねていけば、なんとかなる」と思えるようになった。
こうやって生まれた余白を、夢、挑戦、情熱といったエネルギーに変えていきたい。
(ちなみに、枠の中に書いてある英語は、最初に載せた動画「Dream On - Aerosmith」の歌詞。枠の外の英単語は、大切にしたい言葉たち)
最後のワーク
最後のワークでは、「来年を表す絵」を描いた。
しかし、わたしは先のワークでうっかりそれを描いてしまい、皆にもその想いを受け取ってもらった。なので、今度はみんなに贈り物をしたいと思い、1人1人の顔を見ながら、17本のPASSを描いた。
描き終えると、運営のいっせいさんは「この絵に、全員から絵や言葉を描き足してもらいます」と告げた。なんてアグレッシブな展開。
贈り物をするつもりが、贈られるとは。この絵をどう位置づければいいの?考える暇もなくワークは始まった。頭で考えるなということか。
30分後、私の絵が、わたしたちの絵になって戻ってきた。
ありがたい。本当にありがたい。
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