5章 ー 世代 ー

「ただいまー。」

「お帰りなさい、美沙。結構遅かったのね。どうだった、教会は?」

「うん、えっとね……。」

 美沙は母に約束したとおり、ひとつひとつ頭の中を整理しながら、母に話していった。美智子は時折「へえ」とか「まあ」とか相づちを打っていたが、次第に無言になっていった。

「……お母さん、わかった……?」

「……まあ……だいたい……?」
 そう言う美智子も、やや自信がなさそうだった。

「こんな体験したの、始めてなの。」
 美沙が若干興奮したように付け加えた。

「美沙……このまま神さまに身を捧げて、お母さんたちの手の届かない、どこか遠くに行っちゃう、なんて無いわよねえ…?」
 美智子は何かにつけて、「途中の過程をすっ飛ばして飛躍した結論を出す」という癖がある。

「やだ、お母さん、大丈夫だよ。私はどこにもいかないよ。」

 手を左右に振りながら、美沙はあっさりと否定した。大切なたいせつな家族を大切にしない神様だとしたら、こっちから願い下げだった。


「なんだ、また教会に行ったんだって?」
 日曜出勤から帰った父が夕食時に切り出した。口調から、そこまで心配してはいなさそうだが、全く平静でもないようだ。

「……宗教は一歩間違うと、大変なことになりかねないからな……。」
 眉間にしわをよせながらぐいっとビールを飲み干す。何となく話しづらい雰囲気だ。

「道房さん、まずは美沙の話を聞いてあげて。」
 美智子のとりなしもあって、道房も心持ちを切り替えたようだ。
「……聞こう。」


 それからおよそ20分間、やや要領を得ない美沙の話しぶりにも道房はよく耐えて耳を傾け続けた。口を挟みたい衝動に駆られたことも幾度かあったが、美智子の抑えと励ましもあって何とか話を終わりまで聞き続けた。

 美沙が話し終えて、恐る恐る父の顔を覗き込むと、道房はあご髭に手を当てて、下を向いたまま考え込んでいる。

「……お父さん……?」

「……ぅぅぅんんん……。」
 返事の代わりに、道房はうめき声のような低い音をもらした。

「……道房さん??」

 ややあって、道房が口を開いた。
「……話を聞いて、いろいろ思い出した。美沙、今度は父さんの話を聞いてくれるか?」

「……う、うん?いいけど…。」
 思いもよらない展開に美沙と美智子は顔を見合わせた。


「美沙、父さんは大学時代に、大学の聖書研究会に通っていた事があったんだ。」

「へぇ……。」
「あら、それは初耳だわ。」
 美智子も思わず言葉を挟む。

「聖書研究会は楽しかった。ようやく受験勉強から解放され、いろいろ自由に試したい、探求したい盛りだったからな。集まった奴らもなかなか頭の切れる輩で、社会の問題や倫理に政治、そして聖書について論じ合った。」
 ふんふん、とうなずく美沙。

「しかし、ある事件をきっかけに、聖書研究会には一切顔を出さなくなった。」

 1995年3月20日、午前8時頃、サリンという神経に作用する毒ガスが、東京の地下鉄という逃げ場のない閉鎖空間に同時多発的に散布され、死者13名、負傷者6000名以上を出す戦後最大級の凶悪無差別テロ事件となった。

 犯人はオウム真理教という新興宗教団体のメンバーで、サリンの製造には世間でいわゆるエリートと呼ばれる多くの医師や理科系の大学院出の者たちが関わっていた。なお、現在はこの団体はアレフ(Aleph)と改名して、地下鉄サリン事件を知らない若年層をターゲットに信者を獲得をしつつ活動を続けている。


「父さんはな、良い大学へ行って、良い成績を収めて、良い会社に就職し、母さんみたいな素晴らしい女性と家庭を築ければ、それで幸せになれると思っていた。」
「あら♡」
 美智子が頬に手を当てる。

 美沙はそれどころではない。うなずくのも忘れ、不安そうな面持ちで父を見つめている。

「だが、地下鉄サリン事件は父さんの幸せの定義、つまり『幸せとは何なのか』という考え方を大きく揺るがした。父さんが求めていた学歴と頭脳を持っていたエリートの若者たちが、凶悪な犯罪集団に喜んで貢献し加担したのはなぜだったのか。その時の父さんにはわからなかった。わからなかったが、自分が今持っているもの、知っていることだけでは足りないのではないか。そう考えると不安で仕方がなかった。
 それとな、あの事件は父さん達の世代に『宗教は危ない』という概念を強烈に植え付けた。それまでは宗教と言えば『人を良くしてくれるもの』、くらいの素朴な認識しかなかったように思う。
 事件の後、父さんは【真っすぐに一つの事を信じる】という事の危うさをひしひしと感じた。そして、父さんは聖書研究会から足が遠のいて、顔を出さなくなった。今思えば、得体の知れない恐れを感じたからだと思う。自分を超えた存在に自分の人生をかけて信じることに。まっすぐに信じてしまえる若さに。信じた人たちの、たとえ一部かもしれないが、彼らの末路に。」

 美沙は息を詰めて父の話を聞いていた。

「美沙。」
「は、はい!」
 名前を呼ばれ、ビクッとしながら返事をする。

「もう一つの話も、ずいぶん昔のことで忘れてしまっていたんだが……これは美沙がまだ幼い頃の話だ。」

 要約すると、こういう話だった。道房と美智子が新婚3年目、美沙が生まれてまだ9ヶ月の頃だった。道房の仕事が繁忙期で睡眠不足が続いていた時、仕事中に具合が悪いと言い出し、珍しく残業せずに帰宅した。風邪だと思い早めに帰宅し休もうとしたが、熱が39度を超えていた。

 寝ていれば治ると思っていたが、3日経っても熱は下がらず、医者に行っても風邪だと言われた。途方にくれた美智子が藁にもすがる思いで友達に電話をかけまくってアドバイスや助けを求めたところ、一人だけ「わかった、お祈りするね!教会の人にもお祈りしてもらう!」と言ってくれた友人がいた。ほどなくして、道房の熱は急激に引き始め、5日目には仕事に復帰できた。後にその友人にお礼をいい、4日目の昼前頃に熱が引いた旨を伝えると「よかった!ちょうどその時、教会でみんなでお祈りしたの!」という返事が返ってきたそうだ。

「……。」
 この話がどういう方向に進もうとしているのか分からず、美沙は黙して父の話しに耳を傾け続けていた。

「美沙。」
 父が美沙をまっすぐに見つめ、改まって言った。

「……はい。」
 ひざの上で握っていた手に、きゅっと力が入る。

「お父さんの話は以上だ。」

「……え、以上って……?」
 手を結んでいた力が方向性を見失ってほどける。

 道房は目を閉じて、ふーーーっと長い息を吐いた後にゆっくりと続けた。

「1つ目は、父さんが恐れから探求を止めてしまった話。2つ目は、父さんにも母さんにも理解できない世界があるらしいことを体験した話だ。」

 少し間を置いて、道房は小声でこう言った。
「……父さんが途中で置いてきた探求を、神さまはおまえに続けさせようとしているのかもなあ……。」

「……え、何?」
 何か怖いことをぽつりと言われた気がした。心細さと、感じたこともないもやもやしたものが自分の内側に広がる。

「いや……何でもない。美沙、お前はどうしたい?」

「どうしたいって……。」

 こっちが聞きたいくらいなのに。そう思う美沙だったが、父に問われて改めて自分の気持ちに向き合ってみた。うつむいて考え込む美沙を、二人は静かに待っていてくれた。

 ややあって、美沙がゆっくりと顔を上げた。

「お父さん、私……自分が体験したものが何なのか、知りたい。わからないまま、うやむやにして先に進んで行きたくない。でも、こわいよ。すごく、すごく不安だよ。お父さん、もし私が変な道に入り込みそうになったら、私の手を掴んで引っ張り出してくれる?」

 やや涙目になりながら、父の目をまっすぐに見て美沙が言った。道房はまっすぐに美沙を見つめ返しながら、ゆっくりと力強い調子でこう言った。

「もちろんだ、美沙は僕たちの大切な一人娘だもの。」
 そう言って父は美沙を抱きしめた。張りつめていた感情があふれてきて、美沙は声を上げて泣きじゃくった。このお父さんお母さんでよかった。心からそう思った。


そして、両親と美沙は次の約束をした。

 【何があっても、家族の絆を引き裂こうとする教えや力には抵抗すること。】

 【見聞きしたことはできる限り家族に報告すること。】

 あとは家族でよく話し合い、抱え込むことのないようにしよう、という事になった。


 次の日、美沙はまた寝坊した。 


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