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全ては神様の思し召し #スピリチュアル

 行雲流水という言葉があります。

行雲・流水は文字どおり空行く雲と流れる水、どちらも作為のない自然のままの流れを象徴しています。 自然で伸びやかな文章のたとえ、あるがままの自然な生き方のたとえ。 また何事にも執着せずに自然の成り行きに任せて行動することのたとえとして用いられます。

http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/water/icity/watertalk/vol20/word/index.html#:~:text=%E8%A1%8C%E9%9B%B2%E3%83%BB%E6%B5%81%E6%B0%B4%E3%81%AF%E6%96%87%E5%AD%97%E3%81%A9%E3%81%8A%E3%82%8A,%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%88%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E7%94%A8%E3%81%84%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

 「周りに流されて生きる」
 そう捉えることもできます。しかし、そういう生き方は必ずしも悪いと言えるのでしょうか?
 今日は、そんなお話です。

 人生は何が起きるか分からない。そんな当たり前のこと、理解しているつもりでも、できていなかったりします。
 ここで、好きなことわざを紹介します。
 人間万事塞翁が馬。意味はこうです。

「人間万事塞翁が馬」の由来となったあらすじは以下のようなものです。

塞に住む老人の馬が逃げたところ、老人は「これは福となるかもしれない」と言いました。そしてしばらくすると、その馬が駿馬(足の速い馬)を連れて戻ってきたのです。

周りの人は喜んだのですが、老人は、「これは禍となるかもしれない」と言います。そして今度は、老人の子供がその駿馬から落ちて骨折をしてしまいました。

老人は再び、「これは福となるかもしれない」と言うのです。その後、戦争で男子は兵役で連れて行かれたのですが、骨折が幸いして老人の息子は兵役を免れ、命が助かったというものです。

これは、天邪鬼な老人の話ではなく、「禍福は予測ができないものだ」ということを伝えるものです。このことから生まれたのが「塞翁が馬」、「人間万事塞翁が馬」の教訓です。

この「人間万事塞翁が馬」には、さまざまな解釈があります。「幸不幸は予測し難い」、さらには「幸不幸は予測し難いので、安易に悲しんだり喜んだりするべきではない」という意味や、「幸運も喜ぶに足らず、不幸もまた悲しむにあたらない」という意味、また、「幸不幸は予測できず、何が禍福に転じるかはわからない」という意味にも使われます。

https://domani.shogakukan.co.jp/649499#google_vignette

 幸か不幸か。それを決めているのは自分自身。目の前にはただ、事実があるのみ。
 現実は全て、神様の思し召し。その点を明らめた上で、自分に出来る限りの努力をし続けるしかないのです。
 事の顛末は神様が決めているとしても、それでも自分なりに一隅を照らして生きていく。
 それが、自分の人生を生きるという事です。
 行雲流水と矛盾しているように思えますか?
 「流される」のではなく、「流していく」のです。
 結果に囚われない。現実を受け入れるしかない。
 自分の意思で生きる。この姿勢を常に持っておく。
 最後に、ヒンドゥー教の聖典を引用して、記事の締めとします。

「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。」

『バガヴァッド・ギーター』(『バガヴァッド・ギーター』岩波文庫 39頁)


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