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不自由を求めてる自分に気づく時

「ではまた次回に~」

先ほど、オンライン「ことのは文章教室」の第1回目が終わった。

ふぅ。パソコンを前に今、心地よい疲労感を感じている。

書くことは、セラピーだ。そうわかってはいた。そう思ってはいたけれど。

「書くこと」がまた私をさらに自由にし始めている。


講座の前に、テーマが与えられ、それについて文章を書いて提出する、という課題があった。

今回は、「書くこと」そして「生きること」というテーマだった。

課題についての詳細のメールには、「自由に書いてください」と書かれていた。え?自由に?どうやって?型もわからないよう。と不安になった。

でも、自由にって言われたんだから、がんばって自由に書くぞ!
と特に質問もせず書いて提出した。

がんばって自由にしたつもりだけれど、やっぱり、どこか私は型を欲しがっていた。

講師のひとみさんは、いったい何を書いてほしくて、このテーマにしたんだろう?

ひとみさんは、この文章をみて、何をみたかったんだろう?

なんでこのテーマなんだろう?

と問いが湧いてきた。


ひとみさんが、求めているものがわかれば、そのことについて書けるのに。
と思った。

いや、今考えると、求められても、書けるわけではない。
けれど、自由を目の前にした居心地の悪さから、「それさえあれば(解決できるのに)思考」に陥っていたようにも思う。


講座の中でも、自分から課している不自由さに気づいた。

「話す量が多くてすみません」って二回も言っていた。

結局自由に話すのだけれど、必ず「今このことについて話していいかな」って探りが入る。

「私、不快にさせていないかな。」というセンサーも常に作動している。

「私、ピンとずれてんなー」という突っ込みも常駐している。

「私、何が言いたいかとっちらかってんなー」というアナウンスは鳴りっぱなし。

それでも、発言するし、そこまで自分を責めはしないけれど、このうるさい声たちは、どうにかならんもんかなーとは思っている。


講座の中で、皆が書いた文章を皆で読みあう場面がある。

その時、皆、やはり、自由に書いているのだ。

そこからすると、私も、私の選んだ型の中で自由だった。

皆、違う切り口になっていた。

皆、違う視点になっていた。

ひとみさんは、その自由に捉えられた、様々な視点から書かれた文章を丁寧に添削して、コメントしていく。全部OKなのだ。


そうか、違っていいんだ。

自由ってそいういうことだ。

私は、講師もしているし、もともと小学校の教員もしていた。

特に、小学校の教員だった時は、授業を作るときに「なぜ、このテーマなのか」「何を学んでほしくて、この授業をするのか」「どうしてこの活動を選んだのか」という教員の「意図」というものをしっかり考えることをたたきこまれた。

そんな職業柄もあって、先生の意図に沿おうとする傾向がある。

先生や講師、ファシリテーターとしては、大事な観点だが、受講生や生徒としては、自由度が狭まってしまう性質だなぁと。


講座の最後にフリートークがあって、思い切って聞いてみた。

「ひとみさん、なんでこのテーマにしたんですか?」と。

ここでも、こんなこと聞いていいのかな。踏み込みすぎかな。という警報は鳴ってたけれど、講座の中でたっぷり自由を味わい、ひとみさんに全幅の信頼をおいた私は聞いてみた。


そしたらこう返事が返ってきた。

「自由に書いてほしかったからです」

・・・・・もう笑っちゃう。

せっかくひとみさんが「自由に」かけるようにと選んだテーマに、私は「型」を「不自由」を「枷」を求めたのだ。

不自由好きもここまでくると笑っちゃう。

それにしても、さっさと質問してすっきりとした気持ちで文章を書けばよかったなぁ。

いや。

これでよかった。

私の「不自由」を求める傾向がコントのように描かれたのだ。

そして、「不自由さ」には、ある程度「心地よさ」があるというエピソードを得たのだ。しかも他者のじゃない、自分のやっちまってるエピソード。

やっちまったエピソードは、言葉にすると、なんと愛おしいことよ。


セルフセラピーカード 「自由」」のカード


これは、セルフセラピーカードの「自由」のカード

自由は、与えられているものではない。

与えられているのは、「自分を自由にする能力」なんだ。

自由は、もらうものでなく、なるものではない。

「自分を解き放つこと」を「自由」って言います。









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