見出し画像

【第7回】空間/場所読書会 報告記事

「近代体操」では「空間/場所」をテーマに読書会を行なっています。成果として雑誌を制作することが予定されていますが、その過程自体で読者を巻き込み、私たちのインプットの過程自体を外に開こうと考えています。
 本記事は、その読書会第7回(12月18日)のレポートとしての、松田樹と草乃羊による報告のまとめです。今回は〈「移動」「観光」による空間の変容〉をテーマとした。
 ここでは課題本の読解における骨子をまとめるにとどめますが、報告の際には多くの論点が展開され、質疑でもさまざまな意見が交わされました。本レポートで関心を持たれた方は、noteのサークルからご参加いただけます。


◆松田樹「モビリティと/の コミュニティ——ジョン・アーリ 『 モビリティーズ 』を読む」

 松田の報告では、ジョン・アーリ『モビリティーズ 移動の社会学』(作品社 、 吉原直樹 ・伊藤嘉高訳 、 2015 [原著2007])が扱われた。著者のアーリはロンドン生まれの社会学者で、社会科学の方法論から出発して徐々に観光社会学や環境社会学に軸足を移していった。その議論は「移動」をめぐる新たな社会科学の潮流を形成し、しばしば「移動論的転回」(mobilities turn)とも称される 。

(1)「モビリティ」によって空間を問い直す——「移動論的転回」へ

従来、「場所性」は「領域的なもの」とされてきたが、アーリは、人間と人間の結節点として「場所性」を捉える。また、「移動」を考えるにしても、階層移動研究や地域移動研究といったものでも、「中心と周辺」という図式に沿ったドメスティックなモデルのなかで移動は捉えられていた。
こうした従来の「場所性」や「移動」ないし「モビリティ」を刷新するモビリティ・スタディーズは、1990年代にピークを迎えた空間論的転回に連なっている。空間論的転回は、社会理論を「時間と空間」で書き換えるものと要約でき、クロック・タイム(時計の時間)と遠近法的空間という社会理論の前提を問いに付すものといえる。

「移動論的転回」とは、従来、固定的 かつ 領域的に把握されてきた「社会科学」の諸学問(タテ=階層移動研究/ヨコ=地域移動研究)を、 「 移動 」 のプロセスに基づいて把握し直すこと である 。アーリによれば、「移動」 (mobility)には、大きく分けて 以下の 四つの 内容 が含意されている(本書19頁)。
(1)モバイルという語は、一般に移動しているか、移動可能なものを指す。
(2)またそこには、暴徒、野次馬、野放図な群衆を形容する意味が込められている 。
(3)社会科学の分野で、移動とは水平のみならず 、上下の社会(階層)的な動きも含まれる。
(4)移動には観光や旅など一時的なものだけでなく、移民や移住といった長期的なものも含まれる。

移動論の紹介者である吉原直樹は、アーリの議論を、いわゆる「空間論的転回」をさらに押し進めたものとして理解している。要するに、「空間論的転回」が近代に構築された「クロック・タイムと遠近法的空間」を土台とした「社会科学」の諸学問を問い直したように、「移動」を軸とすることで我々を囲む時空間の条件が再審に付されるのだ。実際、本発表で紹介する 『モビリティーズ』第Ⅱ部 では、アーリもやはり「クロック・タイムと遠近法的空間」がいかなる移動の手段によって構築されたのかを問題にしている。

本読書会【第4回】でルフェーヴルを扱った際に、世界をインフラとロジスティックスの網目の下に把握する最新の空間理論が後期ルフェーヴルの読解から引き出されていたことを思い返そう。「移動」を軸に我々の空間的条件を問い直すアーリの議論は、これまで読書会で扱ってきた著作・内容と多くの共通点を有している。ちなみに、今回のもう一つの課題図書である『ひとり空間の都市論』の南後由和もルフェーヴルの研究者であり、『都市への権利』の解説を執筆している。

画像3

今回の読書会では、アーリの移動論を紹介しながら、前回まで扱ってきた内容を振り返り、わたしたちの日常がどのような歴史と背景をもつ「移動のシステム」によって構築されているのかを検討した。

(2)「モビリティ」から誕生した「公共性」

そもそも「モバイル」という言葉の語源の一つは、「暴徒(モブ)」にある。18世紀後半までの西欧では、街の城壁の外を歩く者は 危険な「他者」であった。反対に、城壁の内には、集会のための広場が中心にあり、そうした建造物としての都市空間は、物的な施設であると同時に、そのうちにある集団が定住社会として在りつづけるための「身体」であった。「ヨーロッパ中世において都市が存在するとは、単に人びとと彼らが居住する空間が存在するということではなく、 それらの人びとが一つの団体── universitas (ウニヴェルシタース)、communitas (コムーニタース)、 communio (コムーニオー)── を形成し、それが一個の法人として集団的人格をもつことであるということであ」った(若林幹夫「 空間と「場を占めぬもの」」 『 10+1 』 97・8)。

画期をなすのは、第二帝政期(1852-1870)のオスマンパリ改造計画である。オスマンはパリという都市空間を見知らぬ者同士が出会うスペクタクル――都市が本来的に有する、ルフェーヴルのいう「劇場」性――として構築しており、そこには足跡が残らずにまっさらな個人として遊歩することが可能な舗装された街路が広がる。利用者は「観察力のある独り身の男性」に限られていた――女性が自由に歩くことができるようになったのは近年のことだとレベッカ・ソルニットは言う。
ここに至って「歩くこと」は商品に幻惑された「そぞろ歩き」に主流を譲る。これが、現代の観光客≒写真家の誕生に他ならない(東/大山パラダイムの元型)。アーリは先んじて『観光のまなざし』を著しており、18世紀以降、場所が「視覚」に占められてゆくことを問題にしている。

アーリ図1

アーリは、そぞろ歩きしながら写真を撮る者について、ソンタグを引用している。すなわち、そぞろ歩きしながら写真を撮る者は、目に入れつつも所有はせず、

何よりも中産階級の遊歩者の眼の拡張としてこそ、その真価を発揮する。写真を撮る者は、カメラという武器を手にしたある種の孤独な散歩者であり、都市の地獄図を認識し、こっそり近づき、そこを漫歩するのだ。また覗き見的にぶらつき、その都市を遊蕩の極地なる景観として発見していくのだ。観察に長けた、感情移入の玄人である遊歩者は、この世を「絵のように」見るのである。

ソンタグ『写真論』

前回(第6回)の本読書会で扱った『公共性の喪失』においてセネットは、19世紀以降、都市は遊歩者の彷徨する空間となり、移動性が増すことで都市から「公共性」が失われていったのだと理解していた。しかし、アーリはむしろそこに「新たな公共空間」の誕生を見る。
鉄道という19世紀に整備された移動手段が、①タイムテーブルによる各都市の時間の統一を可能にし、②パノラマ的視覚という場所を「景観」として消費する態度を醸成したからである。
アーリは、ここに「移動」が人間の時空間の条件を変容させていった萌芽を見る。とはいえ、本章の内容にやや留保を付けるとすれば、ここで言われる「公共性」とは国民国家のようなものに近しいものである(アンダーソンの「想像の共同体」的)。

報告では、さらにマルク・オジェの「非-場所」と関連する議論や、アーリが重視する「創発」というキーワードと原発やNIMBYの問題の関連性についての議論が展開された。


◆草乃羊「常時接続社会における「ひとり空間」——南後由和『ひとり空間の都市論』を読む」

 草乃の報告では、南後由和『ひとり空間の都市論』(ちくま新書、2018)が扱われた。本書は、タイトル通り、「ひとり空間」を切り口にして、ジンメルやシカゴ学派を含めた古典的な都市論を紹介しつつ、住まい、飲食店・宿泊施設、モバイル・メディアという三つの軸を中心に、社会学と建築学の間で行き来しながら都市を解析するものである。

都市にはどのような「ひとり空間」が存在しているのか、そのような空間で人はどのような経験をしているのか、なぜ都市において人々は「ひとり空間」を欲するのかなどが、本書の問題意識として挙げられるが、社会学も建築学も超えて、情報社会の進展がいかに「ひとり空間」に影響を与えているのかという問いについても丁寧に分析され、スマートフォンやSNS のみならず、シェアリングエコノミーとP2P プラットフォームについても詳細に考察されている。

本報告では、本書全体を紹介しつつ、言葉の定義と都市社会学やメディア論の古典の解読を扱った第1章、モバイル・メディア環境の変化による「ひとり空間」の変容を分析した第4章、そして、従来の都市における「ひとり同士」の関係を変えていく可能性をはらんでいるP2P プラットフォームという仕組みに焦点を当て、「ひとり空間」の行方を展望する最終章の3つのパートを中心とした読解を行った。

(1)「ひとり空間」とはなにか?

まず、なぜ「一人」「独り」ではなく「ひとり空間」なのか。「一人」とは、空間・時間の占有の課金対象となる単位(これは「単位としての一人」であり、商品化された均質空間における「ひとり空間」を生み出し、つまりそれは、ユーザーに合わせた標準を設定し、その標準からの差に応じて課金する装置でもある)である。また、「独り」とは孤独・自由・独身を意味する言葉である。そして、本書はその双方の意味を持たせるために「ひとり」と表記するのだと整理されている(本書41−42 頁)。

画像4

次に本書では、「状態としてのひとり」という概念が提起されている。「ひとり」という言葉の背後には、様々な差異が隠されている。それは、年齢、階層、ジェンダー、人種などの属性による差異であり、つまり、「ひとり」の中には、学生もいれば、中高年もいるし、高齢者もいる。そして、「ひとり」でいる理由も、進学・就職での上京、未婚・離別・死別など、様々である。このように「ひとり」には様々な差異があることから、本書は「ひとり」を属性としてではなく、「状態(state)」として捉える見方を提示するのである。
「状態」とは、ある時点における人や事物のあり様であり、それは、一時的もしくは中長期的なものではあるが、永続的なものではない。「状態としてのひとり」とは、一定の時間、家族、学校や職場などの帰属先の集団・組織から離れて、ひとりであるあり様を指す。「状態としてのひとり」は、「単位としての一人」や「孤独・独身としての独り」とも矛盾しなければ、単身者にもそうでない人にも同様に適用しうる。
注意すべきなのは、「状態としてのひとり」は、それを選び取っている人たちもいれば、それを強いられている人たちもいるということである。前者の場合はたとえば、家族と一緒に暮らしている人が自分だけの時間が欲しくて、家族から離れ「ひとり」だけで過ごす場合であり、また、携帯音楽プレイヤーの音源をイヤホンで聞きながら移動し、雑踏のなかで自分だけの世界にひたる時間も、ひとりの状態である。後者の場合はたとえば、ホームレス、引きこもりや一部の単身高齢者たちのことである。

こうした概念整理のあとで、本書は、ジンメルやシカゴ学派の都市社会学などの古典によって「ひとり空間」がどのように論じられてきたかを整理し、さらには、シカゴ学派が十分に展開しなかった「移動性(mobility)」や、情報空間(サイバースペース)にも触れて議論を進めている。

(2)「常時接続社会」と「最適化」の問題

今の時代は、Wi-Fi や5G が整備され、スマートフォンの普及によって、常にオンラインで他者と接続されている「常時接続社会」である。SNS が使われているスマートフォンと、主にメールが利用されているケータイの時代を比較すると、いくつかの変化が見られる。

南後図1
スマートフォン(e.g.SNS)の時代とケータイ(e.g.メール)の時代との比較
(本書177頁を参考に作成)

上図に示した、このような常時接続社会は、SNS でつながっている同士の相互監視を生み出す。そのため、逆に監視から逃れ、常時接続社会から自らを切断し、「ひとりになりたい」という切断指向を駆り立てる。ジンメルの指摘を応用すると、「神経的刺激」を与える情報圧が強められ、常につながっていたいという孤独を避けたい気持ちと、常時接続の状態から自由になりたいという思いがせめぎ合っているのである(本書178頁)。

それから、インターネットとスマートフォンの時代では、「パーソナライズ」もまた重要なファクターである。パーソナライズとは、ユーザー個人の興味・関心・行動に合わせて「最適化」されたサービスを入手したり、提供したりする方法である。たとえば、同じ機種のスマホを使ってもインストールされているアプリが異なり、同じSNS を使ってもスクリーンに現れる情報は異なる、などだ。

パーソナライズには、能動的パーソナライズ受動的パーソナライズがある。能動的パーソナライズとは、ユーザー側が個人に最適なサービスを自ら入手すること、つまり、見たい情報だけを選択し、見たくない情報を排除することである。具体的には、自ら選択したアプリをインストールすること、Twitterで特定の人をフォローすることなど。受動的パーソナライズとは、メディア側から提供されるサービスによって情報を入手すること、つまり、私が情報へアクセスするのではなく、情報が私へアクセスしてくることである。GAFAなどのIT企業は、私たちがいつ誰と通話・通信し、どこに行き、何を買ったかなどの個人情報や履歴を収集、蓄積、解析するアルゴリズムを実装し、それによって、それぞれの個人の行動を追いかけると同時に先回りして様々な情報を送りつけてくるのである。

本書では、前者のパーソナライズする世界では、ユーザーが情報の「選択と排除」の主導権を握り、コントロールしようとするが、後者のパーソナライズされる世界では、ユーザーが感知しないところで自動的に形成されるフィルターが「見えない仕切り」として機能し、そのフィルターを通過した情報のみが届けられると整理されている。しかし、パーソナライズする世界とされる世界はどちらも、見たい情報、信条に合うもの、好む人のことだけを知ることに居心地の良さを覚え、そうでないものを知ることを避ける傾向を助長している点で共通していると指摘されている。
こうした状況は、「フィルターバブル」(イーライ・パリサー)と呼ばれるが、自分に関係ないと思われる出来事や、見慣れない世界を知ることを避けようとする態度(「避知」)を促進し、コミュニティ内の異質性の減退を引き起こしている。そして、それに代えて、趣味や信条の会う者同士が出会い、コミュニケーションする閉鎖的な「同質性」が増幅することとなった。


【総括】つながり直す「モビリティ」——「創発」の可能性——と課題

たとえば「モビリティ」を可能にする一つに空港があるが、マルク・オジェ(本読書会第2回)にとって空港は通過のための意義しか持たず集団的な社会性を構築しない「非-場所」として捉えられていた。ところが、アーリにとっては、その議論はあまりにも定住主義的であり、空港という場で行われる振る舞いの具体性を見落としており、むしろ全世界が情報・モノのネットワークに覆われつつある現代では、飛行空間といったようにフローの集積として場所の定義を考え直すべきなのだといわれている。
「モビリティ」には負の側面もあるが、アーリにおいても南後においてもいずれも、「モビリティ」にポジティブな可能性を見出している点で共通している。そこで鍵となるのは、アーリが重視する「創発」というモチーフであろう(アーリ第2章)。システムの構成要素は、要素同士の相互作用を通して、それぞれの構成要素に内在しているように見えない集合的な特性ないしはパタンを、「おのずから」発展させている。「ひとたびシステムが制御変数の小さな変化によってある閾値を超えると、[…]転換が起こる。この「転換点」から生まれるのは、そもそもの基本法則の特性とはまったく異なる特性を有する想定外の構造と出来事である」。

このようなモチーフは、ネットに当初期待されていた開放的な「異質性」に重なるものだと思われる。この点で、南後は、P2Pプラットフォームなどの個×個のプラットフォーム、そしてシェアリングエコノミーの活用について論じながら、都市空間の今後を展望している。
P2P とは、端末を介した一対一の対等な通信方式である。このような構造で作られたサービスには、たとえば空間の貸し借りのマッチングサービス「スペースマーケット」や、Airbnb、そしてUber などがあル。これらのサービスは概して、「シェアリングエコノミー」とも呼ばれ、「ひとり」が持つ有形、無形の資産(時間、空間、モノ、スキルなど)を交換、共有する経済的行為を指す。これには二つ特徴があり、一つは、ある程度の地理的に近接した条件下で機能することであり、もう一つは、情報ネットワークに媒介された一般大衆が、企業によるサービスの受給者にとどまるのではなく、サービスの提供者となり、市場を集団でシェアし、市場の運営と監視をも担う存在に変わるということである。
そして、都市空間でのシェアリングエコノミーや個×個のプラットフォームの重層化によって、匿名性が低く、拘束性と同質性が高い「農村・地方型」の人間関係と、匿名性と異質性が高くて拘束性の低い「都市型」の人間関係の「中間状態」が生まれる言われている。

質疑応答では、創発といったモチーフにせよ、「モビリティ」という発想がさまざまな流通のシステムを問題とするときの「主体」の地位はどうなるのか、また、南後『ひとり空間の都市論』では、さまざまな属性・差異を捨象した「状態としてのひとり」を問題にしているが、こうした観点から、NIMBY、本読書会でずっと問題としてきているバックヤードの問題をどのように論じることができるのかについて議論が交わされた。
また、『孤独のグルメ』に描かれるのはプチブル健常者(井之頭五郎)の都市であるが、介助者を伴う障害者にとっての都市は別様に感じられるはずとの指摘もあった——またここでは「ひとり」という単位も自明ではない。この点については、社会学的記述の限界なども議論になり、本読書会第2回では、ティム・インゴルド『メイキング』とマルク・オジェ『非-場所』という、どちらも人類学者の著書を扱ったが、エスノグラフィのような都市空間の経験の記述の有効性が論じられた。


(文責 - 古木獠)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?