【第4回】空間/場所読書会 報告記事
課題書のご紹介
9月18日(土)に行われた第4回の読書会は、第3回で取り扱った毛利嘉孝によって紐解かれたストリートの思想および東浩紀のショッピングモール論についての議論で明らかになった問題系を、さらに思想的・理論的に深掘りし、「都市における運動/資本の問題」という大まかなテーマを中心に、アンリ・ルフェーヴル『都市への権利』(発表担当者:松田)およびデヴィッド・ハーヴェイ『資本の〈謎〉ー世界金融恐慌と21世紀資本主義』(発表担当者:安永)を取り上げた。
『都市への権利』
アンリ・ルフェーブル(1901–1991)はフランスの哲学者・社会学者であり、「日常生活批判」で有名だが、『「五月革命」論ーー突入ーナンテールから絶頂へ』『都市革命』『空間と政治』などの都市・空間論のほか、『マルクス主義』『美学入門』『総和と余剰』多岐にわたる著作を発表している。パリ大学ナンテール校(現パリ第10大学)で教鞭を取っていた時期に、ジャン・ボードリヤールがその助手を務めていたという。
ルフェーブルの『都市への権利』(1969)は今や都市論の古典として読まれているが、前回取り上げられていた『ストリートの思想』(毛利嘉孝、2009)の背景にあるものも、この本で論じられているものである。今回の読書会では主に、「まえがき」「工業化と都市化」「危機的な点の周辺において」「スペクトル分析」および「都市への権利」の5つの章を中心に発表が行われた。
『資本の〈謎〉』
デヴィッド・ハーヴェイは、1935年にイギリスで生まれた地理学者であり、1970年代にアメリカに移住し、現在はニューヨーク在住している。ハーヴェイは『資本論』を中⼼にマルクス主義を空間的に展開し、現在は経済地理学という分野で主に活躍している。
今回の読書会で取り扱うハーヴェイの著作『資本の〈謎〉』は、まず2008年の金融危機を概観・分析し(第1章)、そして資本の流れを「集める・生産する・市場を通る」という三つの部分に分け、それぞれの過程における障壁を描き出す(第2・3・4章)。さらにその次に、地理的な条件の中における資本蓄積の展開を解き明かす(第5・6・7章)ーー今回の発表では主にこの部分を扱う。最後に、オルタナティブの探求も行われている(第8章)。
* * *
アンリ・ルフェーヴル
『都市への権利』
都市とは、われわれ労働者の劇場である
アンリ・ルフェーヴル『都市への権利』において、発表者の松田は「都市とは何か」という疑問提起を中心に本書を解読していく。端的に結論から述べていくと、ルフェーヴルが本書において出した答えとは、都市とは「われわれ労働者の劇場である」というものであった。松田は以下の一節を本書より抜き出し、ルフェーヴルのこの結論を窺わせてくれた。
都市計画なるものの社会的と政治的な力が、形成途上の都市的なものを奪い去っている。それらを退けた時に「都市の統合や参加の能力を恢復し、強化することができるだろうか」という問いかけが、今回の主題における理論的に枢要な問題である。
ここで松田は、ブラジルにおける都市問題を描いた風刺画を引き合いに出す。これは、サンパウロの再開発における反対運動のチラシに描かれたものだが、絵の真ん中で、市⻑ジルベルト・カッサブは「PROJETO HIGIENIZAR(消毒プロジェクト)」と書かれたブルドーザーに乗りながら、「サンパウロの街を掃除します」と真面目な顔をして言い、低所得者の密集住宅を壊そうとしている。
市長の背後には、「Especulação(投機)」を打算し、千載一遇のチャンスを得たことでほくそ笑む白人の投資家たちが陣取っている。投資家たちの背後には近代的な高層ビルが屹⽴している。
そのような市長と投資家たちに対して、絵の左側には、憤慨な表情を浮かべている人種も服装も様々な住民たちは「Queremos Moradia(住宅が欲しい)」と訴え、その隣にはベニア板で貼られたような簡素な住宅がひしめき合っている。これは、ブラジルでサッカーW杯があった2014年であるという。
これが、都市への権利における劇場的な対⽴がわかりやすく可視化された例であるが、この漫画を念頭に起きつつ、ルフェーヴルの論考を見ていく。
(1)ルフェーヴルの立ち位置
哲学者であると同時に、社会学者でもありルフェーヴルだが、本書において彼の立ち位置とはどのようなものなのかについて、まず明らかにしなければならない。もちろんそれは非常に明快な答えを持っているルフェーヴルが取っている立場といえば、基本的に「マルクス主義者」というものであった。
「都市」というものに分析の眼差しを差し向けつつも、ルフェーヴルは「知識人による体系(すなわち計画=コルビュジェ「プラン」)」の下にそれを置くことを斥ける。ルフェーヴルは「この著作は、諸々の体系を粉砕することを望んでいる」(7–8頁)と自らが定義し、本書の前半部分において、彼は概して「体系の廃絶」を中心に論考を進めていく。
しかし、この「体系の廃絶」はまだ、思惟のなかで、イデオロギーのなかで、実践のなかで持っている重要性や意味を「政治的に獲得していない」(8頁)とも指摘する。したがって本書の野心として、ルフェーヴルはこれらの問題を「政治的プログラムのなかへ入らせること」を狙うものとしている(8頁)。
そしてこの狙いを実現できるのは、「プロレタリアート」の「実践」のみであり、また、「都市とは何か」という問いに答えられるのもそれのみである。「プロレタリアートが、この歴史的な指名をおびている」「プロレタリアートのみが、諸々の分裂に(諸々の疎外に)終止符を打つことができる」(57頁)という。
また、ルフェーヴルは本書の末尾に、執筆された1967年を「『資本論』百年」と認識し、それを明記していることから、彼の論考の基底には、マルクスが常にいることが明白なことであろう。「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきたにすぎず、重要なことは世界を変えることである」と言うマルクスに対し、「都市の歴史との関係のなかにある哲学の歴史は、完成に到達するどころではなく、ただ粗描されているだけである」(57頁)とルフェーブルは⾔うのである。
(2)「都市とは何か」、その理論的素描
危機的な点
ルフェーヴルにとって、「現代」は「危機的な点」にあるという(109頁)。仮に都市化の0から100%の都市化へと線を引いてみようとすると、ルフェーヴルはまずそれを3段階に分ける。それぞれ政治的都市(アジア的生産様式=農業)→商業的都市(封建的生産様式=商業・職人)→工業的都市(ブルジョア的生産様式資本)であるが、その工業的都市がやがて引き起こす工業化と都市化の二重の過程から「危機的な点」は生み出される。西ヨーロッパにおいては、それはほぼ16世紀に位置しており、現代もそこにあるという。
工業化と都市化
工業化は、われわれの時代についての考察の出発点を提供しているが、しかしルフェーヴルにとって、都市は、工業化以前から存在していたのであり、工業化は都市化の歴史過程の一局面に過ぎないという。
たとえば、ローマという都市は、工業化以前の時代からすでに存在しており、そこにおいてはある程度「美しい都市創造」はできていたとルフェーヴルは言う。この作品としての美しさは、現代ーーつまり、金銭・商業・交換・生産へと向かう不可逆的な方向づけーーと対照的であり、作品においては使用価値が重要なのだが、しかし生産物は、交換価値なのである。
都市の内破=外破
ルフェーヴルによれば、現在、都市は「内破=外破」と呼ばれうる過程が深化しているという。人口は、憂慮すべき密度に達しつつある一方で、同時に多くの古い都市の中核が棄損され、あるいは粉砕されている。ローマのような従来の都市は、人が集まってでこそ都市になるが、工業化された都市は、「増殖し」「田舎を侵略し」、よって都市の内部が空洞化し、さらにそこから溢れ出た人口や資本は逆に農村を侵し、「都市の織り目(le tissue urban)」を作り出す。
たとえば、ヴェネツィアは工業の集積地であるメストレへと人口流出し、これが都市の「内破(内部から破壊される)」なのだが、フランスの工業都市のグルノーブルの場合は、集まった人々は都市に入り切れなくなり、逆に農村へと移動するという都市の「外破」という現象も起きている。
松田の解読によれば、ルフェーヴルは「都市の織り目」という言葉において、敢えて「tissue(生物の組織)」という語を使っていることから、その生成変化を無機質なものではなく、生物的で有機的なものとして捉えている意図が窺える。しかし、そのように有機的に(そして無軌道的に)変化していく都市を、整除しようとするイデオロギーが「都市計画」であり、このような「都市計画」こそが、本来の「都市的なもの」を抑圧しているのである。
(3)都市とは、われわれ労働者の劇場である
都市的なもの
都市の有機的な変化によってその「織り目」が姿を表し、都市は今までにない性格を持ち始めた。しかし都市計画はこのような「都市的なもの」の本来性を退けて、現代はまさに、このような危機的な状況に陥っている。
「都市的なもの」について、ルフェーヴルはこのように定義する。
しかし、「国家」と「企業」は、そのような都市の諸機能を奪い取りながらもそれらを引き受け、都市的なものを破壊しつつもそれらを保証しようとする。しかし、都市という中継地、都市という媒介物なしに、それを済ますことはできるだろうか。それらは、都市的なものを廃絶することができるだろうか、とルフェーヴルは問いただす。
もちろん、その答えは「いいえ」である。なぜなら、「都市や都市的なものは、われわれの地平線に、潜在的な物体として、総合的な再構成の企図として、横がをのぞかせる」(145頁)のである。この「潜在的な物体」をルフェーヴルは「スペクトル(spectre=幽霊)」と呼び、その分析ーーすなわち「スペクトル分析」ーーが必要であると彼は主張する。
都市の幽霊
デヴィッド・ハーヴェイは『反乱する都市』において、ルフェーヴルが本書を執筆した1960年代のパリについてこのように言及している。
このような状況について、ルフェーヴルはいかに対抗するすべを見いだしていくのか。松田は近森高明の解読を持ち出す。近森によれば、ルフェーヴルは都市を、現実態(眼前にあるがままの姿)と可能態(あるべきものとして隠れている姿)の二重の相として対象化している。一つは、「現実的・直接的な現実であり、実践的=感覚的で建築的な所与である都市」としての「都市(la ville)」であるが、もう一つは「思惟によって構想し、構築し、あるいは再構築すべき諸関係から組み立てられた社会的現実」としての「都市的なもの(l’urbain)」である。
このような、われわれの目の前に姿を表していない、いつも地下に潜んでいる幽霊。「その幽霊を呼び覚ませ」というのが、ルフェーヴルが見いだしたカウンターであり、このカウンターによって、都市を劇場化していく。
都市の劇場化
劇というのは、AとBの対立であり、冒頭で説明していたサンパウロにおける資本家と市長に対抗する低所得者たち、そしてハーヴェイが言及していた古い近隣地域と高層住宅の対立である。つまり、バラバラに寸断されている中で、都市的なものを蘇らせ、その幽霊を蘇らせ、都市を劇場にせよと、ルフェーヴルは呼びかける。
つまり、ルフェーヴルにとって、都市への権利とは、「変貌させられ、刷新された都市生活への権利として」(177頁)しか、定式化されることができない。それは、単なる伝統的な諸都市への訪問あるいは回帰の権利として構想されることはできない。都市的なもの、それは「出会いの場所であり、使用価値の優位性であり、諸々の財貨のなかの至高の財貨の位へと昇った時間の空間への刻み込み」(177頁)である。その実現における主要な役割を担っているのは労働者階級であり、「労働者階級のみが、この実現の行為者、担い手、あるいは社会的な支えとなることができる」(177頁)という。
* * *
デヴィッド・ハーヴェイ
『資本の〈謎〉』
資本と空間ーーデヴィッド・ハーヴェイ『資本の〈謎〉』
ルフェーヴルにおいて、われわれ労働者は、「国家」や「企業」が強いる無機質的な都市計画に対して、常に潜在的に存在している都市の幽霊を呼び覚まし、それに反抗していくべきだとした。しかし、そもそも「コンバインによって壊された田舎と建てられた高層ビル」の背後にある、コンバインを操っているような「資本」というものは何であろうか?
マルクスによれば、資本とは蓄積を目的とし、より大きな利潤を求めて運動するものであり、そして資本が人の形を取ったのが資本家である。今回の読書会において、二冊目の報告者の安永は、マルクスを継承したデヴィッド・ハーヴェイの著作を手がかりにし、資本と空間の絡み合いを考察し、空間の中での資本家の動きをなぞっていく。
資本の流れ(キャピタル・フロー)とは、われわれの社会における「生きた血液」である。しかし、経済学的モデルが複雑化していく一方、資本の流れについての体系的理解が疎かになっているとハーヴェイは指摘する。それが引き起こした事件の一つが、世界的な⾦融危機を引き起こした「サブプライムローン危機」をほとんどの経済学者が予期できなかったという失態なのである。ハーヴェイはそこに着目し、マルクスの系譜を継承しつつ、資本主義における矛盾点が必ずそのような金融危機を引き起こすという主張のもとに、資本の流れの体系的な性格を明らかにしていく。
(1)危機と恐慌が引き起こされる仕組み
サブプライムローン危機
2000年代後半、住宅バブルを迎えたアメリカでは、信用度に比較的に低い顧客にも、限度を超えた住宅ローンを貸し付けていた。それが「サブプライムローン」という。このような住宅ローンを証券化した⾦融商品は、債務不履⾏のリスクが適切に扱われない状態が伴っており、それが世界中に広まっていった結果、住宅市場のブームの終焉とともに、⾦融市場は⼤打撃を受ける。
つまり、サブプライムローンを受けた顧客が、債務を返せなくなるリスクを隠蔽したり分散したり、やがてその実態をつかめなくなっていき、結果、貸し付けたローンは回収できなくなった。これが「サブプライムローン危機」である。
信用に依存して増殖する資本
ハーヴェイの分析によれば、資本は流動性を求める性質を持っているのに対し、空間に根ざす固定的な不動産は、資本主義を支える「信用」に依存しており、そのため、バブルが起きやすいという。この不動産市場によってもたらされた21世紀最大の金融危機が長引く理由も、資本主義における信用への依存なのである。
資本増殖のシステムは信用に深く依存している仕組みについて、発表者の安永はこのような例を挙げる。資本主義において、たとえば現金で100万円があるとしたら、個人が銀行へとその100万円を預け入れし、さらに、銀行は企業へとその90%を貸し付ける。その90%を手にした企業はさらに銀行へと預け入れ、その上銀行はさらに別の企業へとその90%をまた貸し付ける。つまり、現金は100万円しか存在していないにもかかわらず、資本は「100+100×90%+100×90%×90%+…」と無限に増殖していくのである。
危機と恐慌が引き起こされる仕組み
ではなぜ、資本主義は「サブプライムローン危機」のような危機や恐慌を、定期的に起こしてしまうのか?資本主義の恐慌体質とはいかなるものか?どのようにして、信⽤という理想は現実と⾷い違うのか?それは、恐慌は「常に不安定な資本主義を不合理な形で合理化するもの」(98頁)だから、ということである。
また、恐慌形成に関してはハーヴェイは、比較的に多角的な原因として考える。「そのリストの筆頭に来るのは、貨幣資本の不⾜、労働問題、部⾨間の不⽐例性、⾃然的限界、不均衡な技術的・組織的諸変化(競争と独占との対⽴を含む)、労働過程における規律の⽋如、有効需要の不⾜である」(149–150頁)。
これらの諸事情のいずれか⼀つでも、資本の流れの連続性を連帯ないし中断させるなら、恐慌は起き、その結果として資本の減価ないし喪失をもたらす。そして、⼀つの限界が克服されても、蓄積はしばしば、どこかで別の限界にぶつかる。
このような⼀義的な原因を持たない恐慌は、各地の「歴史的・地理的状況の中で形成されうる」(150頁)。ハーヴェイによれば、市場には、それぞれの時間的・空間的に特有な、恐慌を引き起こしうる制限が満ち溢れており、それらの制限を回避する過程で別の制限が引き起こされる可能性をはらんでいる。
(2)資本の流れの地理学
ハーヴェイによれば、経済学者の多くは、「空間の⽣産」が持つ資本主義上のインパクトを捉え逃してきた。「⼈々は空間を占有し、どこかの⼟地の上でなんらかの⽅法で⽣活しなければならない」(185頁)のであり、空間を占めることで、資本蓄積のダイナミズムが⽣まれ、地理的な差異が発⽣する。資本の蓄積が空間を基点にすることにおいて、ハーヴェイは二つの原則を見出す。
第一の原則:地理的限界の克服と空間的支配
一つめの原則とは、資本蓄積において、あらゆる地理的限界は克服されなければならないということである。マルクスによれば、資本は「交換のあらゆる空間的制限を取り払い、地球全体を自己の市場として獲得しようと努めるものである」(196頁)。
このようにわれわれは空間的な障壁を取り払うようにして、技術⾰新を行い、さらに、輸送や通信技術を発展させ、地球はますます狭くしている。このような空間的再編成の度に、資本の流通は加速されていく。
また、「空間と時間を征服することは、⾃然を⽀配することの絶えざる追求と並んで、資本主義社会の集団⼼理において⻑期にわたって中⼼的なものであった」(199頁)ということもハーヴェイによって論じられている。
第二の原則:地理的集中と地理的差異
さらにハーヴェイは、「資本の流通は針の頭では起こらない」という比喩を用いながら、「生産」は貨幣・生産手段・労働力(労働力は概して局地的な労働市場に封じ込められている)の地理的集中を伴うことを指摘する。
資本の蓄積は、競争と恐慌によって、事後的に合理化される。だからこそ、前もって与えられるカオス、すなわち地理的多様性は、資本の再⽣産における必要条件である。よって、資本は常に、地理的差異を要求する。技術により空間的な障壁が下がったとしても、資本は微々たる差異に⽬を配り続けるだろうとハーヴェイは予測する。
二つの原則が作用する都市という空間
ハーヴェイによれば、この⼆つの原則がダイナミックに作⽤する空間が都市である。都市空間の⽣産は、過剰資本を吸収し、資本主義において⼤きな役割を果たす。永続的な成⻑を使命とする資本主義は、増⼤した⼈⼝と過剰資本の吸収を、都市空間を形成し続けることで⾏なっていく。
ルフェーヴルの問題意識と同様に、ハーヴェイもまたその最たる例として第⼆帝政期のパリと、その本質が19世紀から変化していないにもかかわあらず規模や市場だけが⼤きくなった現代を挙げている。
(3)地理的不均等発展の政治経済学
資本蓄積にとっての最後の障壁としての空間
ハーヴェイは最終的に、これらの原則を、地理的不均等発展の政治経済学に結集する。私たちは今や、買うという契約行為をネットショッピングのウェブサイトでできるが、商品が玄関まで届けられるのに配送業者は不可欠だし、また時間的にな遅延も伴う。
これこそが資本のスムーズな流れに対して、最終的に現れてしまう空間的な障壁(宅配にかかる時間)である。つまり、資本は蓄積のために空間を要求し、その空間の上でのみ⾃由で連続的な運動が可能である。
しかし、その空間に投資された資本は破壊することでしか、移動できない。「資本主義は、速度と空間的制限の縮⼩を容赦なく追求するのと同時に、資本の流れを、空間に固定されているために流通するのが遅い資本に合わせることもしなければならない。この緊張関係から恐慌が容易に発⽣しうるのである」(240頁)。
変革の道筋
最後に、これまでの議論をベースに、ハーヴェイは変革について、「資本主義的論理」を考慮する以外、「権力の領土的論理」、すなわち空間にかか悪論理も考えなければならないと主張する。
* * *
総括
以上が、9月18日(土)に行われた第4回の読書会の概ねの内容である。今回は、ルフェーヴルの目線から、常に都市に潜んでいる「スペクトル(幽霊)」を蘇らせるプロレタリアートによる都市の劇場化という熱を帯びた呼びかけと、地理的高低差という視点から資本が持つ空間に絡む性質を冷静に暴き出すハーヴェイの分析を、メンバーの松田と安永を中心に見てきました。
読書会では議論が展開されていたものの、本レポート記事では触れられなかったポイントは多々あり、たとえば松田が精力的に解説していたパリ・コミューンとオスマンのパリ改造に対するルフェーヴルの賞賛と批判や、運動の核心となる都市の空き地すなわち空白にまつわる争奪、そして安永が発表の最後にその一端を覗かせてくれたハーヴェイによる資本主義のこれからに関する考察は、多く言及することはできませんでした。
近代体操が今年の中盤から始まった「空間/場所」を中心テーマとするこの読書会は、一見かなり広い範囲を射程に入れているように見えるが、その芯として常に持ち続けているのは私たちメンバー各自の身近な世界に根差す問題意識であり、「自らが今いる場所」についていかに考えるのかをさまざまなテキストを手がかりに手探りしていくのである。
この読書会は次回では資本主義の枠組みを逸脱しようとする「サイバースペース」および「メディア・技術と空間の」問いを扱い、第5回を迎えるが、12月の後半には、第7回を行う予定です。来年からはさらに多様な仕方で活動をしていくので、ご興味を持たれた方は、冒頭で記されたリンクをご参考に、お気軽にご連絡・ご参加ください。
文/草乃羊
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?