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【第2回】 空間/場所読書会 報告記事

「近代体操」では「空間/場所」をテーマに読書会を行なっています。成果として雑誌を制作することが予定されていますが、その過程自体で読者を巻き込み、私たちのインプットの過程自体を外に開こうと考えています。

本記事は、その読書会 第二回(7月3日)のレポートとしての、安永光希と草乃羊による報告のまとめです。
 ここでは課題本の読解における骨子をまとめるにとどめますが、報告の際には多くの論点が展開され、質疑でもさまざまな意見が交わされました。本レポートで関心を持たれた方は、noteのサークルからご参加いただけます(本読書会の趣旨については、下記の記事を参照ください)。

◆安永光希「ティム・インゴルド『メイキング』」

安永の担当はイギリスの人類学者ティム・インゴルドによる2013年の著作『メイキング』である。

インゴルドの人類学:内側から知る方法

周知のように、人類学者はある集団に入り込み、フィールドワークを通じてその文化を記述することを(民族誌)。インゴルドは、民族誌の完成ではなく、ある文化へのコミットメント(参与観察)そのものを重要視する(インゴルドはこれを「内側から知る方法」と呼ぶ)。

インゴルドはある文化についての客観的記述よりも、そこに参与する主体そのものの自己発見のプロセスを重視する。こうした存在論的コミットメントは「知識」に対する「知恵」、「他者についての学」に対する「他者とともにある学」として規定される。インゴルドは自身の課題を「科学によって伝えられる知識に、経験と想像⼒の溶け合った知恵を調和させること」と言い表している。

質料形相論批判

インゴルドが「メイキング=つくること」に着目する背景には、伝統的な哲学が提示してきた質料と形相のモデルがある。質料形相論では、素材としての「質料」がある型(「形相」)を参照し事物を構成・成形するとみなす。インゴルドはシモンドン並びにドゥルーズ・ガタリを手がかりに、こうした二元論を批判する。

インゴルドは冶金術を実際の例に挙げながら、質料と形相の関係を再考する。伝統的なモデルでは、質料は無反発・無気力・惰性的なものとみなされ、形相が事物の本質である、とみなされる。これは、職人が思い描く抽象的な原型こそが本質であり、物質はそれに付随するものに過ぎない、という考えに等しい。しかし、インゴルドによれば、実際に職人が型枠の木材に粘土を流し込む際には、「横⻑の四⾓形の輪郭をもつレンガは、物質に対する型の「押しつけ」によって成るのではなく、粘⼟と型に内在する、反発して均衡する⼒の「対⽴」によって成る」

インゴルドが見出そうとするのは、メイキング=つくることそのものに内在する物質との関わりである。創造の行為は創造主によって一方的になされるわけではないのだ。「つくり⼿が形状を頭のなかに描いていたとしても、その形状が作品を創造するわけではない」

デザインの捉え直し

こうした前提を受け入れるなら、たとえば建築計画と実際の建築物の関係は単なる「計画」⇨「実行」の直線的な連なりとして理解できなくなる。インゴルドは建築の分野においてはドローイングのプロセスに着目する。

メイキングの行為の只中においては、単に予定されたものが実現されていくのではない。メイキングが着目するのは、職人が常に素材を「予期」し、素材との緊張関係の中で即興的にかたちを作り上げていく、時間的な推移である。

「デザインとつくることの関係性は、希望や夢を引き寄せることと、物質的な抵抗のあいだの緊張にあるのであり、認識的な思考と機械的な執⾏のあいだの対⽴にあるのではない。それは、まさに想像⼒の広がりが、物質の抵抗に出会う場であり、野⽣の⼒が、⼈間の住まう世界の⼿つかずの周縁と接触する場なのである。」(インゴルド『メイキング』)

空間の問い——「メイキング」の条件としてディスポジション

安永はこうしたインゴルドの立場を総括した上で、柳沢田実編『ディスポジション:配置としての世界』(現代企画社、2008年)を参照し、問題を「空間」の問いに接合する。ディスポジション(配置)の問題圏とは、近代的な認識主体–表象の世界観を超え、「世界を存在者同士の関係として捉える」ことを通じて主体化のプロセスを問うものだ。

『メイキング』は理論的なアティテュードよりも、具体的な経験を通じて制作の手触りを掴むことを目的としてる。しかし安永はむしろ、ディスポジションの問題を通じて、『メイキング』でインゴルドが前提としている理論的背景をより大きな視座から歴史化する必要を述べた。

読書会後半の質疑では、インゴルドの人類学の立場が、人間と「もの」の直接的/身体的/即興的な関係に着目するあまり、その諸条件(ex.政治)が必然的に捨象されるという点が問題視された。

◆草乃羊「場所から非–場所へ」(マルク・オジェ『非–場所』)

草乃の担当はフランスの人類学者マルク・オジェによる1992年の著作『非–場所』である。

オジェもまたインゴルドと同様、人類学とその対象の関係についての新たな考察から始める。オジェは、自身の人類学研究の興味関心を「よそ」から「ここ」へ、つまり、「身近な場所」(ヨーロッパ、フランス、ひいてはパリ)へと移す。彼の主張はある意味では簡素である。つまりは「スーパーモダニティは数々の非−場所をうむこと」だ。

場所と非場所

オジェは人類学者でありながら、哲学、歴史学、文学、文芸批評といった豊富なリソースを用いて議論し、また彼自身が小説的な描写を多用するという点で、かなり特異なアプローチをとる(この報告記事では割愛する)。

「スーパーモダニティ」という概念は言うまでもなくボードレールのいう「現代性(モデルニテ)」から引き継がれたものである。スーパーモダニティの著しい特徴は、「場所」から「非−場所」への転換が生じるということである。「場所」が「アイデンティティを構築し、関係を結び、歴史をそなえるもの」とするならば、「非−場所」とは、「アイデンティティを構築することも、関係を結ぶことも、歴史をそなえることも定義することのできない空間」である。具体的には高速道路、スーパーマーケット、空港といった「無国籍」で「匿名的」な場所(「非–場所」)は、その特有の非歴史性によって定義されることになる。グローバリゼーションが生み出すこうした諸々の非–場所が、オジェの考察のテーマとなる。

言語とコミュニケーション

また、「非–場所」の特徴は、「言語」から「コミュニケーション」への移行としても特徴付けられる。「言語」は、その「場所」のアイデンティティに根ざした人々によって交わされるものであり、その「場所」でしか通じない。それに対し「コミュニケーション」は、「場所」特有の関係性や歴史性を超えた、諸々の語がもつ広告的イメージの喚起、〈神話〉的創造力によって特徴づけられるだろう(たとえば、タヒチやマラケシュに行ったことのない人でもその名前を聞いた途端に想像力でイメージが呼び起こされる、といったような事例)。

非–場所におけるアイデンティティ

「非–場所」におけるアイデンティティは、著しく瞬間的な一過性によって規定される。クレジットカードの使用、高速道路上にスピードを警告されるドライバー、赤信号無視で特定される車などの登録された名簿的なアイデンティティしかもたない個人(「平均人」と呼ばれる)は特有の解放と孤独を抱えることになる。飛行機搭乗前に空港のデューティーフリーで買い物を楽しむ乗客は、荷物の重量から、日常の重圧から、税から、自身のアイデンティティからさえも解放される。しかし彼らは同時に、自身のセルフ・イメージ(他者からまなざされる自己)に対面することにもなるのだ。

たとえばボードレールの詩は、詩人が眺める近代的な街並みのみならず、その街を眺める詩人自身をも描き出す。ここで詩人は情景の一部となるのだ。オジェがスーパーモダニティの体験の起源を見出すのはこうした経験である。だが、スーパーモダニティの経験は、単に自己へのまなざしのみならず、テキストによる侵犯としても特徴づけられる。それは高速道路、スーパーマーケット、空港などの「非–場所」が私たちに提示する語(mots)や文章(textes)の機能である。

旅人たちは、その旅の過程でさまざまな「場所」に行き来する。しかし、歴史的な建築物の細部や美しい自然の細部は看板のテキストの中にあり、時には単純化されたイラストも添えられている。看板によって旅人はそれらの風景を知り、さらに、自分自身が風景の近辺にいることを知る。オジェによれば、空間の景色は、見られるものでなく、「読まれる」ものになる。

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このように、スーパーモダニティ状況は個人を「場所」の歴史性から解放しつつ、個人に別のセルフ・イメージを与えるのだ。草乃はこうした状況をフーコーのいう「ヘテロトピア」と結びつけながら報告を終えた。

総括

記憶を持った「場所」から、広告的イメージにまみれた「非−場所」へ、というオジェの状況認識と、「メイキング」の動的過程を通じて事物と製作者の生きた関係を取り戻そうとするインゴルドの議論には呼応し合うものがあった(ただし読書会ではインゴルドの議論の楽観的側面が批判的に言及されることもあった)。いずれの場合も、こうした彼らの概念装置は今後の私たちの活動に強い影響力を持つことだろう。

空間/場所読書会は、私たちが雑誌制作をしていくうえでの作業現場そのものを参加者たちと分有するという理念のもとに運営されている。したがって毎回の会合でも単なる文献の理解にとどまるのではなく、テキストの咀嚼と粘り強い議論を通じて、「空間/場所」の可能性を模索している。

参加者との交流によって新たな着想が生まれるケースもしばしばある。そのような創造の場が気になる方は、ぜひサークルへの参加をお勧めしたい。

(文責 - 左藤青

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