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短編小説「おしいおいしい」2022・5・11


 麻婆豆腐。辛いもの。

かき氷。七月から八月末に食べることが多いため夏の風物詩として考えられている。冷たくて甘いもの。

お寿司。ピンからキリまである。その値段はシャリやネタに使われている食材費、誰が握るか、お店の立地と雰囲気のなどの総合評価によって決められる。酸っぱい。

うどん。白い麺と黄金色の汁が特徴的。うまい。


私がそういった一般常識を持ち合わせていないと気づいたのは、つい一週間ほど前のことである。食事をした後にみんなが言うような感想が、私のそれとは違うらしい。私の舌は一種類の味覚しか感じない。しょっぱい、甘い、辛い、酸っぱい、苦いをまるっきり全部合わせて一つ。私の持つ「おいしい」はレーダーチャートではなく、一本の図々しいほどに真っ直ぐ伸びた棒グラフで表されるのだ。

いつからかは分からない。生まれつき自分に特有なものか。はたまた成長途中で落っことして来たのか。どちらにせよ私のこの舌の持つ感覚を表す為の名前が早急に必要だ。これからはこいつを『アキラ』と呼ぼう。親近感をみんなが持ちやすいだろう。

アキラの存在に気づいたのは一週間前のこと。目隠しと鼻栓をした状態で食べ、どの料理かを当てるという暇つぶしを一人でしていた。ほんの出来心でそこに深い意味などありゃしなかった。当たったからなんだ、と言う具合に。

だがどの皿からスプーンで掬ってみても同じ味がするのだ。右の皿、左の皿、ちょっと手を伸ばして届く皿。何杯食べても、どの順番で食べてもだ。怖くなった私は目隠しを外した状態で食べてみた。さっきよりは僅かに味の違いのようなものは感じられるが、想像上の味の方がずっと濃い。その後も皿の位置を変えたり、温め直してみたりしたのだがやはり結果は同じだった。そして全ての皿が真っ白になった、この事実を基に私を不安に陥れた検証は打ち止めになった。

友人にも聞いてみた。なぜ君たちは美味しいと感じるのかと。甘い、辛いと言う味覚を本当に感じているのかと。彼らはラーメンを食べながら口を揃えて、「じゃあ君はこれが甘いと感じるのかね?」と言った。

こうなってしまったらアキラの力はますます強まるばかりだ。悩み事は消え去ったと思い込んだとしても、一日三回以上は必ず顔を見せる。その度にアキラと共に生きる苦悩を、誰にも分かち合うことのできないこの孤独を感じる。そうして私の精神は世界の隅っこに追いやられてしまう。

ただ私もいつまでも悩むような暇人ではない。アキラの存在に気づいてしまった以上、受け入れて新しい生き方を模索するしかない。アキラは私の一部であると同時に私がアキラであるのだ。

まず手始めに料理を始めてみた。小学校の調理実習以来である。自分で味をつけることは、調味料を手に取って食材に振りかけることであり、完成品の味付けに直結する。選んだ料理は肉じゃがだ。家庭的。質素。おかずにしては弱い。日本人なら容易に想像できるあの味付け。猫の手を模倣した左手を少しずつずらして食材を切る。じゃがいもはその歪な球体で、まな板の上をゴロゴロと駆けずり回っている。芽を取り除く作業が必要だと知るのは遠い未来の話である。じゃがいも三個を三〇分かけて切った後は、同じようににんじんと玉ねぎを切った。鍋に手間暇かけた食材を入れる。

砂糖、醤油、みりん、酒。クックパッドに載っている量を正確に鍋に落とし込む。醤油を入れると口の中がしょっぱさを感じた。次に砂糖を入れる。さっき感じた塩気と砂糖の甘さによって口の中で肉じゃがが完成した。あとは煮込むだけ。

鍋からさらに移し替えたばかりの肉じゃがとご対面する。容器が変わっただけ。既に肉じゃがの味を受け入れる想像も準備も万全である。目を瞑り、鼻栓をする。

さあ大いに暴れるといい、私の口の中で。



暴れたのはアキラの方であった。味がしない。舌はじゃがいもの少し湿ったざらざらとした感触を伝えるのみだった。おいしいと言いたい気持ちはとても大きいのに。ショックを受けた私はその後寝込んでしまった。


ある日、ふと高級店で食事をしようと思い立った。世の中の値段というものは民衆の常識や有識者の真っ当な意見だけでなく、そのもの自体の価値で決まる。ならば超高級な寿司屋だとかフランス料理だとかは美味しいに決まっている。某ホテルの最上階にあるフランス料理を食べに行った。


ウェイトレスが丁寧にもメニューを持ってきてくれた。二番目に高いコースを頼む。コースのメニュー表には小難しいカタカナが並んでいる。それっぽく高級な店に似合う人を装う。テーブルの上には水の入ったグラスとナイフやフォークが並ぶ。

来ている客と同様に、テーブルも簡単には動かなそうだ。体の形にフィットして程よい緊張感を持ち合わせたイスは心地よい。さすが高いだけはある。あとは料理だけ。

「失礼します。こちら前菜になります。季節の野菜としてほうれん草、彩りに桜エビ…。」

遂にやってきた。美味しいと感じなければそれまで。アキラに一生降伏したまま生きていくしかないのだ。緊張の一口目。

「おいしいかもしれない。」

そう美味しいかも知れない。ほんの少しだけ美味しかった。全くもって味はしないままであるが、「美味しい。」と言わざるを得なかった。なぜなら高いからだ。日々の労働で稼いだお金を沢山払って口に入れたこのフランス料理は美味しいものでなくてはならないのだ。だからこれは美味しい。

そう、私はアキラに勝ったのだ。


この日を境にアキラは姿を見せなくなった。味覚は依然として一つのままである。ただ「美味しい」を理解した。正確にはアキラの正体を私が知ったのだ。


おいしいと感じることは感情でも知覚反応でもなく、知識なのだ。だからフランス料理は美味しい。十分な知識と経験を基に作られたものだから。




「おいしい」と感じることは完全な幸福である。

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