短編小説「異邦人」①2022・5・14
二〇二二年五月十四日
男は鴨川にかかる橋の上を歩く。中央付近で立ち止まり、靴を脱ぐ。ポケットから封筒を取り出し、靴の上に置く。
川の流れは見暗くて見えない。ゴーゴーという音が聞こえる。
男は橋のヘリに掴まり、足をかける。
この頃外に出ていなかったせいで、足がギチギチと鳴る。虫が時折顔にぶつかってきては、横へと流れていく。
冷たい風が吹く。川の流れは一層激しくなる。
「潮時だね。」
男はそう呟き、橋の上から飛び降りようとした。
「ちょっとーーーー!そこの人!ねえ!あんただよあんた!」
高い笛の音があたりに響く。男の前に現れたのは警察官の格好をした女だ。女は図々しく男の方に近づき、橋から引き剥がそうとする。男は必死に抵抗するが、女の力のほうが強いらしい。
「何なんですか?離してくださいよ!」
「いや、離さへん。」
「僕はもう死にたいんです!一刻も早くこの世から去りたいんです!」
女の手を振り切ろうとする男。白くて細い腕が夜に舞う。
「別にええねんで?あんたが死ぬことに対して私もとやかく言うつもりは無い。」
「じゃあほっといてくださいよ!」
「でもね!ここで死ぬのだけはやめた方が良い!ここだけはやめて!」
「はあ?なんで!」
「お願いやから!!」
近くの横断歩道の信号が青になる。憲法改正に反対する集団が、拡声器を使って主張している。彼らの目に二人の姿は見えていないようだ。
「いやですよ!早く死なせてください!」
「うん!ええねんでここじゃなければ良いから!ほらあっちの高いビル見える?あそこ、あそこ。」そう言って女は、ポツポツと明かりがついたビルを指さす。
「あそこから飛び降りて死ぬ分には良いからさ!ほら行った行った!」
「はあ?」
「だから、あっちの高いビル見えるやろ?三十階建ての。あそこからやったら飛び降りて良いからさ。絶対に死ねるよ?百発百中。」女は男の背中を押す。男の踏ん張りも虚しく、勝手に体はビルの方へと近づいていく。
「それに比べてこっち見てみ?ひっくい、ひっくい。複雑骨折で終わるよ?いややんなあ?死に切りたいやんな?」
「まあ…。」
「よし、じゃああっちに行こう!うん。ほら早くー。」
「いやちょ、ちょっと待ってください!」
「待たへん、待たへん。早く死にたいんでしょ?もたもたしてる暇ないんじゃない?こっち低いよー?」
「まあ、そうですけど。え?何で?なんで?」
「何でも!」
「はあ?意味わかんないですって、ちょっとお!!押さないで背中!」
「…。」真っ直ぐ前だけを見て、背中を押し続ける女。
「待って!何で?」男は女の腕を振り払い、くるりと反転する。女と男は対面する形で会話を続ける。女は背中を押す手を止める。
「…。」
「…。」
「…たい。」
「…?」
「…りたい。」
「え?」
「…。」
「…。」
女は思いっきり息を吸って、次の瞬間こう叫んだ。
「早くーーーーー!!!」女の叫び声ほど厄介なものはない。男は慌てて女の口を塞ごうとするが、無駄であった。女は続けてこう叫ぶ。
「家にーーーー!!!」
「え、ちょ。静かに!」
「帰りたーーーーーーーい!!」
「ちょっと!静かにって。静かにしてください。」
「あ、ああ。ごめん。少し取り乱しちゃった。」女は制服を直す。
「…。つまり…?」
「つまり、私の管轄内で死なれたら、本部に電話して、手続きとか交通規制とか何やらで帰れへんやろ?明日、私は大事な用事があるの。早く帰りたいの!だからー、あっち!正確にはこの橋の!」そう言って男の背中をまた押す女。
「え?それが理由ですか。」
「うん!早く帰りたいから。面倒起こしてほしくないねん!」
「用事って?」
「別に何でもええやろ!」男はされるがままに端の方へと追いやられていく。
「よくそんなんで警察官になれましたね。」
「ありがと。」
「別に褒めてないですけど…。」
目的地に到着したらしい。女は手を止める。男の顔をじっと見る。
「よし!こっからあっち側!で、死んで欲しい。」
「…。」
「ほら。」
「…。ここ?」
「そこ。」
「…まあ、わかりました。あっち側なら良いんですよね?」
「うん、そうゆうこと。頼むから早くして?今君がそうしている間にも時間は進んじゃっててるから。一つくらい人を喜ばしてから死んだ方が後味いいやんね?」
「まあ。」
「君が死ぬときは見てないフリするからさ。」
女は自分の目を手で隠しながら、五歩後ろに下がる。男との距離は3メートルほど。警察官の女の3メートル先で飛び降りようとする男、という構図が生まれる。男は早く死ねればいいらしい。5分前と同じ動作を反復する。橋に手をかける。
「ふう。いい人生だったな。」
風が吹く。不安定ながらも靴の凹みに支えられていた封筒が飛んでいく。
「ちょっと待ったあああああーーーー!」女が叫ぶ。
続く。
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