Easy Skankingに関するあれこれ
隠された歌詞
「ワインにはハーブ、強い酒には蜂蜜・・・」
この歌詞にはたぶん続きがあります。
「ダンスにはマリファナ」という幻のフレーズです。
そんな言葉が聞こえてくる気がするこの曲Easy SkankingでアルバムKayaは幕を開けます。
対照的なKaya
Kayaは前作Exodus発売(1977年6月)から9か月後の1978年3月にリリースされたアルバムです。
発表のタイミングは半年以上ずれていますが、曲はExodusに収録されたものと同じ時期にロンドンでレコーディングされたものです。
きっちりと構成されたふたつの面を持つコンセプト・アルバムExodusに入らなかったナンバーがKayaには収められています(Exodusのアルバムコンセプトに関してはこちら↓をお読みください)。
こう書くと、「なんや、残りもんか」と思う方もおられるかもしれません。でもこれまでのアルバムと変わらず、非常にクオリティが高い聞き逃せない曲のオンパレードになっています。
闇と光のコントラストに唸らされるExodusとゆるくてメローで優しいKaya。すごく対照的な味わいを持つ2枚の兄弟アルバムです。
終わりの始まり
Kayaのリリースまでの9カ月間はボブの残り時間が決まった運命的時期でもあります。
彼の人生における最大の事件が1977年5月、Exodus発売の約1ヶ月前に発生しました。
それはアルバムExodusプロモーション・ツアー最初の街パリでおこなわれたウエイラーズVS報道陣の草サッカー試合中に起きた右足親指の怪我です。
最初はよくある怪我(=親指の爪を剥がす)だと思っていたものが、実はmelanoma(悪性黒色腫⇒皮膚ガンの一種)でした。
セカンドオピニオンでそう診断され、同年の6月(Kayaリリースのひと月後)にアメリカで皮膚の移植手術を受けています。
これで治ったと思っていたのが、気づかない間にガンが進行していて、ピッツバーグでのコンサート後にツアーをキャンセル、約8ヵ月続いた闘病の末に1981年5月天国に旅立ったというのがおおまかな経緯です。
詳しくは後日「Crisisに関するあれこれ」で書きます。
生きる喜び
サッカーなんてやってなければまだ生きていたんちゃうん?と思う人もいると思いますが、ボブにとってサッカーは音楽と同じぐらい情熱を注いだ大切なものでした。
単なる趣味以上の存在、生きる喜びの源だったんです。
いろんな言葉を残しています。
サッカーが生活の中心にあった人なんです。
ジャマイカで、ロンドンで、コンサートツアーで訪れた各地で、ボブは必ずバンドメンバーやスタッフや報道陣とボールを蹴っていました。
好きな選手は1878年にアルゼンチンをWorld Cup初優勝に導いたゲームメイカー、オズワルド・アルディレス(Osvaldo Ardiles)と王様ペレ(Pele)、好きなクラブはトットナム・ホットスパー(Tottenham Hotspur)とサントスFC(Santos FC)でした。
彼自身もよく走ってハードタックルをするミッドフィールダーだったようです。
仲間とリフティングを楽しんだり、試合したりしている映像がビックリするぐらいたくさん残されています。
1978年にはWorld Cupの試合中継を見逃さないためにコンサートツアーのスケジュール調整までやったという逸話が残されています。
ボブのサッカー愛を知らない人も多いようなんでもうちょっと続けます。
パスを受けてGO
ウエイラーズのツアー・マネージャーを務めたアラン・スキル・コール(Allan Skill Cole)は元プロサッカー選手でジャマイカ人として初めてブラジルのサッカークラブでプレイした伝説的人物です。
実はボブをラスタ集団イスラエルの12部族(Twelve Tribes of Israel)に誘ったのはひと足先に熱心なメンバーになっていたこの人です。
ウエイラーズの仕事を離れ、サッカーコーチとしてアディスアベバに住んでいたスキル・コールを訪ねてボブは1978年暮れにエチオピアに旅しています。
彼にとって初のアフリカ訪問でした。サッカーを通じて親友となったスキル・コールがボブとエチオピアの間に橋を架けた訳です。
ボブのエチオピア旅行については別の機会にきちんと紹介したいと思います。
以上、今回のあれこれはアルバムKayaと前作Exodusの兄弟関係、Exodusリリースひと月後に起きた小さな大事件、そしてボブの揺るぎないサッカー愛についてでした。
それじゃまた~
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