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読書感想文『国土が日本人の謎を解く』

私が度々見返している超人大陸シリーズで、やたらキレのいいおじいちゃんがいるなと。彼が、今回紹介する本の著者・大石久和氏である。

以下は私の感想であり、必ずしも著者の意図と異なる解釈をしている箇所があるかもしれませんがその点はご了承ください。

さて、この本の主題は、国土がその国の国民性に少なからぬ影響を与えるものであるから、それを自覚し、それを原点として日本人として世界の中で自立していくべき、ということだろう。また、日本の国土が、他国と比べていかに使いにくいものかという点も書かれている。地震、津波、台風(暴風)、豪雨、軟弱地盤、平野の少なさ等。特に日本の都市のすべてがこのような土地にあることは諸外国と異なる。よって、インフラ整備や国土強靭化にかける投資が他国と比較して大きくならざるをえないということだ。他国で使える強度の構造物では日本に通用しないのである。

民俗の経験が民族の個性を規定する。われわれ日本人は、何を経験し何を経験しなかったのか。それは、ヨーロッパや中国の人々とどう異なっているのか。(p.31)
また同時に、この日本国土の上で、私たちが経験した自然災害や飢饉やそれに対するわれわれの処し方が、日本人の思考の型を育んだことも間違いない。(p.62)

人が何かを真剣に考える時というのは、おそらく愛する者の死に出会った時である、と筆者は述べている。

島国日本の国土と、ユーラシア大陸の欧州、中国とでは、人々の経験がまるっきり異なる。自然災害で人や集落が壊滅することを繰り返し経験してきた日本と、正義のための殺戮が許され紛争で人が亡くなる経験を繰り返してきた国々とでは死生観も、ものごとの考え方、捉え方も当然異なるだろう。

広大な平野で様々な民族が暮らす大陸で育まれた共同体感覚(公)と、山脈や河川で分断され、平野が無いために小集落で生活を営む中で生まれた共同体感覚(共)では、自分以外の他人を意識する思想的前提がそもそも異なるだろう。

津波や地震や飢饉で亡くなったとしても、私たちは海や土地に依存して生活をしなければならない。自然を恨んでもしょうがないのである。<ゆく河の流れは絶えずしてしかも元の水に非ず>という感覚に共感する。災害で集落が無くなるのだから建物はどんどん新しいものにとって替わられる(欧州に古い町並みが残って今も現役なのは災害が少ないからだという)。新しいものを良しとするような価値観も育まれる(ただし「新しければ(変化さえしてれば)よい」とい考えてしまう危険性も指摘されていた)。そういう状況では人間中心的な考え方や個人という意識よりも、自然との調和を大事にする考え方が育つだろう。

ところが紛争で人が亡くなる場合、明確に相手が存在する。○○派とか○○族とか○○国とか。だとするならば、徹底的に相手を研究して次はどうすれば攻められないかを考えたり、なぜ今回自軍は負けたのかとかを徹底的に考えたりできる。また、人が亡くなるのも建物が壊れるのもすべては人が為すものであるから、人間中心の考え方が育つ。おそらくそのへんも近代合理主義的思想の土台となると思われる。

新しいものは良いものであるからどんどん取り入れようという日本的価値観と、人が中心となって伝統と安定を良しとする欧州的価値観。

私の感覚ではあるが、改革大好き・時代の流れに乗る・日本の悪しき伝統が~などといって、古いという理由だけで今あるものを破壊する行為に及ぶ人たちこそ実は典型的な日本人気質なのではないだろうかと最近は思うようになっている。彼らが崇めているアメリカや欧州各国などは、彼らにとってイノベーションが盛んでどんどん新しいことをやっているように見えるのだろうが、よっぽど伝統を重んじているのではないか。むしろ彼らは自らが依って立つ足元(=歴史、伝統、宗教等)を信頼し、それによって今があることを自覚しているからこそ、絶対に自分を見放さない基盤の元に、様々な活動を行えるのではないか。彼らはそういう絶対的価値観を持っているから、自信があるのだ。

一方、明治維新、敗戦、新自由主義的価値観などで定期的に自らの足元を否定してきた我が国は、今や依るべき基盤を見失いつつある(福田恆存は「我が国に歴史的事実はあるが歴史はない」といっているが、言い得て妙である)。世界から取り残されまいと、かねてから手本にしてきた欧米が提供してくれる価値を次々に取り入れようと必死に生きているのが、維新以来現在まで続く日本の姿ではないか。

日本以外の国々で成功している事例を日本で実施しようとする試みを否定するものではない。なぜなら、自国のことは自国のみではわからず、必ず他者(他国)との付き合いが必須だからだ。問題はそのやり方である。なぜそれがその国で成功しているのかを考える必要があるだろう。(地政経済学的な観点、宗教的な観点等)


国と私を重ねるのもあれだが、まるでかつての私を見ているようである。日本はまだまだ自立していない。

明治に入り、西欧に取り残されまいと躍起になった先人たちの努力は計り知れないものがある。いいとこどりでかいつまみ、モンタージュ写真的に成し遂げた日本の西欧化。あの時はああするよりほかになかったのだろう。しかし、西欧が何百年とかけて近代精神を作り上げてきたその文明と文化を、大雑把に取り入れた日本の現状はどうなっているだろうか。

まずは、自覚すること。私を支えるものが何かを問い続けること。あれかこれかで選択できた経験や、選べる環境を用意できた自分に対する自信というものもあるが、実は危機的状況においてその選択可能だったものは私を破壊しかねないものだったりする。実は、選択不可能な物こそ(それは一見短所や弱点といった形で認識されるもの)危機的状況の<私>を支えるものになっているのではないか。このことは個人にも国家にも通じると思う。

付言しておきたいのは、弱点をカバーするために長所を作り上げることで自分を保つことは不幸になりかねないということだ。それが全く不要だとは言わないが、こだわりすぎると、頑なに冷たい勝者になってしまうという恐れを私は懸念する。国家の場合は国粋主義となってしまうだろう。どちらも他者を否定しないと生存できないという意味で頑なに冷たい勝者である。

相変わらず福田恆存のものの考え方を引用ばかりしている。だってしょうがないじゃん、それ以上適切な言葉が私には無いのだから。


〇関連図書
・大石久和『国土が日本人の謎を解く』産経新聞出版(2015)
・福田恆存『私の幸福論』ちくま文庫(1998)※中身は昭和31年頃書かれたもの
・福田恆存(浜崎洋介編)『国家とは何か』文藝春秋(2014)
・夏目漱石『私の個人主義ほか』中公クラシックス(2001)※特に「私の個人主義」と「現代日本の開化」。この二つは青空文庫にてネット上で読むこと可能。

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