不思議と神社へ行きたくなる理由
日本という国において宗教や神を語ることは
それほどデリケートな問題ではない、
という前提で書かせていただく今回。
私は神や仏を崇拝したりはしないが
人の心の中に神が存在することを
決して否定しない。
たとえばブラック・ジャックを読んで
医師になった人がいるとしよう。
ブラック・ジャックは手塚治虫の手による
創作上の人物だが、その人の中には
確かに存在する。
神や仏の存在もそれと同様のものだと捉えている。
・人事尽くして天命を待つ
政治家やプロ野球チームが神社で
祈願する光景をTVで見かけるのは
珍しくない。
しかし彼らが神頼みで選挙当選や
リーグ優勝をしようと思っているわけでないのは
明らかだ。
神頼みというのは自分たちで
できることをすべてやった上で
自分ではコントロールできない
時勢や天運を味方につける、という
意味合いなのだろう。
努力もせずにいくら神に頼ったところで
結果などついてくるはずがない。
そんなことは幼稚園児でも理解している。
・信仰とは?
私はキリスト教の学校で教育を受けた。
教員や同級生たちには洗礼を受けた真正の
クリスチャンも少なくない環境はクソだった。
クリスチャンや教会に集う人々は
人格者であったり善良な人間たちだと
イメージする方も多いと思う。
しかし考えてみてほしい。
人間がなぜ信仰心を持つかを。
彼らは頭ではわかっているが良い人間に
なれないという悩みを抱え、神への信仰を
通じて立派な人間になりたい人々なのだ。
要するに何かしらの欠陥がある。
それを自覚しているだけマシかもしれないが
少なくとも私は人格者と呼べる神父や教育者に
一人として出会ったことがない。
何人ものクリスチャンと出会い、
信仰というのは未成熟な自分自身を認め、
神に許されようとすることなのだと
私は早々に理解した。
・神という存在の解釈
これらの言葉は有神論、無神論を超えて
私の心に強く残っている。
ほかにも遠藤周作や三浦綾子など
キリスト教を土台とした作家も
自分の生き方、考え方に及ぼした影響は
小さくない。
しかし自分自身に宗教や信仰が必要かと
問われれば、不要だと答える。
神の存在があろうとなかろうと
私の日常生活に何一つ支障はない。
・願い事があるわけじゃない
それでも私は神社へ行く。
職場が渋谷だったころは昼休みに
ひとりで明治神宮に行くこともあった。
まれに健康や家族、友人のことなど
自分の力が及ばない問題があった場合は
参拝するわけだが、その際の作法は
昔ふとしたきっかけでお知り合いとなれた
八木龍平 氏の 著作
「成功している人は、なぜ神社に行くのか?」
にて、覚えた。
ほかに自分の力が及ばない問題といえば、
自身の恋愛くらいしかないわけだが、
これに関しては人事尽くしても
待てど暮らせど天命が来なかったことが
あるので、二度と神頼みをしないと決めている。
ていうか神頼みするほど必死だった
過去の自分が愚かしく、恥ずかしい。
しかし今でも知らない街を散歩していて
鳥居が見えれば意味もなく境内に入って
みたりする。
・神社へ行く理由
願かけもしないのになぜ神社へ行くのかといえば
空間として、非常に心地よいからだ。
たとえば明治神宮。
都心も都心、ビルがそびえ立ち、
地上も地下も常時、人で溢れかえっている
渋谷からわずか一駅。
そんな場所に緑豊かで穏やかな空間がある。
境内に入った瞬間に、まるで異世界のようだ。
そこには都会の喧騒など感じる余地もない。
そして歩きづらい大粒の砂利(というのか?)が敷き詰められた曲がりくねった道を10分ほど歩くと本尊(でいいのか?あれは)が見えてくる。
ここまで来れば拝まにゃ損、というわけで
気持ち程度の小銭を賽銭箱に投げ入れ、
何に祈るわけでもなく手を合わせたりする。
あの空間にはそんなことをしたくなる力が
あるのだ。
そして出口の鳥居までをゆったりとした
足取りで引き返す。
自然が作り出すひんやりとした空気を吸い、
ゆっくりと吐き出す。
自然と視線は上に向き、胸は上下左右に
拡がっているのがわかる。
そんなときに思うのだ。
ありがたい、と。
そして自分の心の中に確かにいる
神の存在を感じている気分になる。
繰り返しになるが
私は神や仏を崇拝したりはしない。
しかし人の心の中に神が存在することを
決して否定しない。