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「天使の光束移動」

大地を高速で飛んでいく。君だけを助けに行く天使みたいに。

「理解できない言葉を全部集めて、私の頭脳の中へ放ってください」と繰り返す彼女の声を聴いたからだ。
本当は彼女もかつての同僚、今は人間の姿をしながら全てを忘れている元天使だ。

「それを一からやるのを選んだのはあなたじゃない?」と、彼女の夢の中に到着すると、私は言った。翼が雲の間で濡れて、すっかり重くなっている。

「なんでこんなに、苦しくなるのかしら。」
彼女は目の前に新しく出来上がりつつある実家を眺めながら言った。

長い間、彼女は夢の中で何度も何度も同じ家に戻っていた。
そこには古いエネルギーがたくさんあって、小さなけんかや争いが繰り広げられていた。
やっと離れたはずのところに、彼女は人間の天使として、夢の中で何度も舞い戻った。
夜に近所を駆け回り、愛犬を撫でて、母親の話を聞く。兄弟は怒ったり、父の車の助手席に座って出掛けていく。
実家は度々様相を変えた。
広大な庭を持ったかと思えば、別の日には図書館の様にもなり、近隣はお菓子の街のようにも、雪一面の静かな大地にもなった。
「もう戻りたくないって思っていた場所なのに、何度も何度もここにやってきちゃうの。」

そうため息混じりに語っていた彼女の実家だが、今、目の前にあるのは新しい一軒家だった。
これは、彼女が長い時間をかけて創り上げた空間だった。

私は「これから世界で一番、弁当を美味そうに食べている人に会いに行こうと思うんだけど、君も一緒にどう?」と彼女を誘った。
「その人はどこにいるの?」と彼女は言う。
手元で光る青い方位磁針を見て、私は言った。
「ここからもっと南へ下ったところ。赤道の近くの領域かな。」

数日前から変わった夏の偏西風に乗って一気に会いに行こうと思っていた。
風はいつでも正しい方向に吹く。だから私は、風を愛しているし、おそらく風も私を愛している。

彼女は「そんなところより、私が喜んでいる未来へと連れて行って」と口を尖らせて言った。
ふいにエメラルドグリーンの風が吹いてきた。
風が彼女の髪を揺らす。彼女は真っ直ぐ前を見て言った。
「でも今はまだ、この家を見守りたいの。何だか、ここを避けては通れない感じがして。」

彼女は生まれた時からずっと光だ。けれど彼女はその光の束に気がついていない。どんな場所へも光を携えていく。だからこそ、彼女が観ているのは闇なのだ。そのことを私が天使時代の同僚としてベラベラと告げることはできない。そうすれば、一気に約束違反となってしまう。

人間として一流の表現者である彼女は、どこか冷めた目つきで私を見て言った。
「あなたは飛べていいわね。いつでもどこへでも、好きな場所へ行けるんでしょう。」

「君だって多次元に飛んでいっては人間を表現しまくっているじゃないか」と言いかけたが、これもまた、約束違反の言葉だった。
彼女は光束で、実家で、社会で、孤独で、喜びで、微笑みながら生きている。
不安を感じて逃げたり安堵したりしている。
多数のアイデンティティに出会って混乱している。
でももう、こんなにも数えきれない程の意識の空間があるのだから、一つを証明しようと躍起になる必要はない。しかし彼女は冒険家だった。強靭な精神を持った探究者だ。自分の家族を超えて、みんなが持つ広大な家族の暗闇にまで光をもたらそうとしていた。

私は手元のファイルを開いてみた。
ここには彼女が書いたエメラルドグリーンの表紙の小説がある。私の仕事は、そんな彼らたちのストーリーの進捗状況を確認しに立ち寄ることだった。

自分の空間で溺れていないだろうか、溺れていたら助けるべきか、見守るべきか。その細部まで、彼らたちはしっかりと小説に書き記している。

「私、もうお腹が空いちゃった。さあ、あなたも赤道付近へ行ってらっしゃい。」と彼女は微笑むと私に手を振った。

私は彼女が書いた冒頭の一文を朗読した。
『闇を恐れない私の芽へ 光が当たれば水を湛えた地球の上に 必ず君は生まれるのだろう』

深呼吸をすると、真っ白な石膏の勇者たちに見守られて回廊を抜けた。白く伸びる道の向こうに、祝福の水が溢れ出している。この煌めきが、君を産んだんだ。

生きたからこそ、美しいものが蒸留された。彼女が経験した痛みは今、世界中の美術館で人々にあたたかく迎えられている。彼女が創っているものは、たった一つの家ではない。今やこんなにも壮大な景色なのだ。
私は夏の風に乗って速度を上げていく。分厚い雲の中で、無邪気に踊る粒たちに語りかけた。〈我々は、遥々宇宙の先までやってきたと思わないかい?〉





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