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色即是空です

暗転。

約10秒程の暗闇の沈黙。

明転。

約2分間に渡り、常田大希がステージ各所で火炎パイロが上がる中で高らかにギターを奏でる。

私は会場の2階の奥のほうにいるというのに、その火炎の熱をはっきりと体感できる。

これがいったい、何の曲のアレンジなのか、あるいは前振りになっているのかはわからない。


再び暗転。

1〜2分くらいだろうか。

暗闇の中で微かに何かが準備される物音が、よりこの時間を長く思わせる。



そして明転。



青白いライトが照らした舞台の真ん中に、椎名林檎が立っている。


『変幻自在の、命剥き出してやれ』




視覚認識と同時に歌詞が耳に届いた瞬間、東京ドームは爆発したのだ。


五感が釘付けになり、本能的に声が出る。


そんな体感だった。









『お世話になります、三菱UFJ銀行です』

「はい」

『お客様のカードに不正利用の形跡がございました』

「え、ああ。そうですか」

『即時対応が必要ですので4ケタの暗証番号を教えていただけますか?』

「ああ、はい。◯◯◯◯です」

『ええwやばwww』

「え?」

『めちゃくちゃチョロいですねwマジでカードとか持たないほうがいいですよ』

「は?なんだ貴様!銀行じゃないな!」

『私ですよ。中村です。番号登録してないんですか?』

「え?ああ中村くんか。いや何このクソみたいな電話」

『普通騙されます?今時。元気でした?』

「まあ元気だけど。キミこそ元気?」

『まあまあですねー』

「ああそう。ところでどうした電話なんて。珍しい」

『28日、空いてますか?』

「空いてるけど」

『見事に騙された松岡さん、騙されついでに何もきかずに28日に後楽園で待ち合わせしませんか?』


「…それなに?」

『まあまあ。調べればすぐ出ますから。ちゃんと空けといてくださいね』








退職最終日、上司に拘束されほとんどの人に別れの挨拶ができなかったわけだが、そんな中で一瞬の隙をついて総務の井元さんが私に話掛けてきた。


『松岡さん、今日が最終日ですよね?』

「そうです。ただ謎に拘束されてしまいまして。びっくりするくらい余裕がないですね」

『そうですか。いまちょっとだけ話大丈夫です?』

「もちろんですよ。余裕がないってのは盛ってるだけですから」


そういうと井元さんは私をリフレッシュルームへと呼び出し、『携帯の番号を教えてください』と言った。


私はいいですよー、と二つ返事で了承し、彼女に番号を伝えた。

すぐにじゃあ私かけます、と電話がなり、その番号を私も登録することにした。

そのタイミングで私は気になって仕方ないことがあり、あえて口にすることにした。

「あの、交換しといて失礼なんですけど、仕事の電話的な感じですか?」

『というと?』

「よく退職前の有給消化を"まだうちの社員なんだから"って平気で仕事の電話かけてくる人いるじゃないですか。正直僕はその考えは1000パーセント間違ってる派なので、申し訳ないですけど仕事の電話なら出ないと思います」

『ああ、大丈夫ですよ。そんなつもりじゃないです』

「あれ?気を遣ってます?変なこと言ってすみません」

『違うんです。松岡さんの退職、私たち総務は全然気付かなくて、それで送別会ちゃんとやろうねって。それで連絡先ききました』

「ええ!嬉しい。めちゃくちゃ嬉しいですよ」

『私、結構松岡さんと仲良かったと思ってるんです。色んなバンドとかライブとか教えたり教えてもらったりして楽しかったし。だから私が代表で聞いた感じです』


そう言われて私は思い出した。

ああ、そういえば俺、井元さんのこと好きたったんだよなあ、と。


不思議なものでしんどかったり、忙しかったりすると、自分が誰のことを好きでどんな理由でそうなったのかを忘れてしまうことが多い。


だがこの瞬間に思い出すことができたのは、彼女の何気ないこういう相手をたててくれる部分に惹かれたということなのだろう。


「じゃあライブ、誘っていいんですか?」

『ぜひお願いします』


マジか。やった。


「なら連絡、LINEのほうがよくないですか?」

『LINEアプリいれてないんです』

「ああ…あの、教えてくれた携帯ってプライベート携帯ですか?」

『いや、社用携帯です』




あ、これ嘘だわ。


何が嘘って仲良いとかライブ一緒にとか嘘だわ。


これ多分、有休消化中に仕事で電話するために番号ききやがったな。



くっそ。これはこれでハニートラップだよ。








気付いた時はもう遅い
淡い願い云えず了い
洗い浚い明かして弁解したい後悔
市井の静かな暮らし、
普通の人心地を望んでいいのだろうか

永遠に至上の議題。








『マジで椎名林檎出たときヤバすぎて盛り上がりすぎてほとんど歌ききとれませんでした』


彼女がそういうように、会場の爆発後もほぼ全員が興奮し続けてしまい、肝心の生歌を聞き取ることは困難なほどだった。


「中村くんさ、"長く短い祭"ってあるじゃん?」

『椎名林檎の?』

「そう。まず"長く短い祭"ってきくとほとんどの人が浮雲こと長南亮介のデュエットシーンを思い浮かべると思うんだよね」

『なにせ忘るまじおじさんとまで言われたほどですもんね』


「カラオケで歌ったことある?」

『ないですね』

「俺はあるんだけどね、この、忘るまーじ忘るまーじ忘るまーじはもちろんのこと、永遠なーんてあっけなーいねも全部亮ちゃんパートは気持ち良いんだよ歌うと」

『はあ、それが?』

「で、俺は思ったわけ。"もしかしたらほんとは椎名林檎は忘るまーじ忘るまーじ忘るまーじを歌いたいんじゃないだろうか"と」

『いやんなわけないじゃないですか。椎名林檎が自身で作った曲ですよ』

「椎名林檎は歌いたい。本当は忘るまじしたい。でも歌わない。これはね、忘るまじしたいけどできないんじゃなくて、忘るまじさせてもらえないってことだよ」

『ハローバイバイ関論法。古いですよさすがに』


「つまりだよ。俺たちは今日椎名林檎をきいた。確かに"変幻自在の〜"をきいた。でもその後は聞き取れなかった。本当に椎名林檎はW⚫︎RKを歌っていたのだろうか」

『まさか…どさくさまぎれにここぞとばかりに、忘るまーじ忘るまーじ忘るまーじって歌ってたってことか!』


「ありえなくはないと思う。信じるか信じないかは、あなた次第」


『いや無いわ。そして関やめてくれや。あれ信じる側にベットするまともな大人いないでしょ』








許してくれ 嘗て犯した科を
裁いてくれ 真新しい良し悪しで
諭してくれ どうせ助かったのなら

愛する人を介してこの世の絶景が拝みたい







案の定、有給突入後に井元さんから連絡がくる。

着信を確認した瞬間に、ああこれは飲みの誘いでも遊びの誘いでもなく仕事の電話だ、と思う。


全く。


最終退勤さえしてしまえば何もかもから解放されると思っていた。

しかしどうやらそれは幻想で、社会人たるものこの世に安息の地はないのだ。


さあ今日は今日で、明日は又明日。

煩っていこうぞ、生身の流離。


私は井元さんを着信拒否した。


もう何もかも、かかわる義理はないのかもしれない。



そしていまはただ、いっときの余韻にひたりたいのだ。



それくらい許してくれ。労基いくぞ。

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