本当の自分について 個性と欲求

 ある人の子供としての、ある場所の教師としての、さまなざまな役割や属性とそれに見合う振る舞いを求められるのが人間社会だ。
 そしてときに役割を押し付けられたり振る舞いに疲れたりすると「この役割や属性は本当の自分じゃない。本当の自分らしく生きたい」と願うのが人の常だ。
 俺は"いい子"じゃないしそんなフリをしたくない…………私は"無個性な子"じゃなくてくだらないから黙ってるだけ…………のように。

 社会の中で、たとえば家や教室や職場である役割を求められ、人年関係の中で、たとえば真面目とか変とかキモいとか押し付けられ、本当の自分はいなくなる。
 誰にも求られないし誰にも押し付けられない孤立と役立たずの中に本当の自分はいる。その状態では人間は自由で、いかなる欲求を抱くことも許されるし、そういう本能がある。そして欲求に基づいて行動することで、他人から見られることになり(山籠りでもしない限り)、そこで個性が発生する。

 つまり、欲求は個性に先立つ。本当の自分とは欲求の束であり、それが行動として発露する。
 パン屋だからパンを焼きたいのではなく、パンを焼きたいからパン屋になるのだ。また、赤子は個性より先に欲求を持つ(赤子の個性のようなものは特徴にすぎない)。

 欲求は抱かずにはいられない。その欲求を明確にしたり、うまく操ることはできても、抱かないことはできない。その純粋で確立されたもの、必要がないのに求ざるを得ないもの、抗えないもの、欲求こそが尊重されるべきである。その欲求が悪徳であっても仕方がない。そういう欲求を抱かないように教育することは有効だ。

 個性とは行動という篩にかけた欲求であり、その篩には言語とか身体とか自然法則という網目があるので、個性とは欲求の偏見にしかならない。
 パンを焼く欲求を満たすためにはパン屋になるのが効率的で、そこでパン屋という個性がたまたま付与される。しかし、金のためにパン屋を始める者もとうぜんいる。

 ここで、欲求は作ることができると反論する方もいるかもしれない。だが私は「陰茎を切り刻んで炒めてソースで味をつけてプロメテウスに捧げたい」とは思わないが、「美味しいプリンを食べたい」とは思う。それは、まず「食欲」があり、それが「美味しいものを食べたい」という高次の欲求に進み、美味しいプリンの存在を知ることで「美味しいものを食べたい欲求」「美味しいプリンがある知識」の合体が起きた結果である。たしかに知識が私に働きかけているが、私の生得的な欲求がなければそれも無意味だった。

 つまり、一見すると作られた欲求も分析すれば作られていない欲求から派生しているということである。もちろん、服が欲しいというのが「そのままの意味で服が欲しい」のか「財力を示したい」のか「センスがいいと思われたい」のか分からないように、加速し続ける消費社会ではその分析は不可能だろう。

 それでも、根本的な欲求を自覚する必要はある。先鋭化した欲求(たとえば社長になりたいとか)は他者や社会から影響を受けやすいのに対し、根本的な欲求(たとえば生きたいとか)は揺らぎにくく、いつでも行動の指針になってくれる。現代で人間性を持つということは、精神的には揺らぎやすいということである。

 個性は常に欲求の写像でしかないこと、欲求そのものを完全に理解することは煩雑な現代ではもはや不可能と自覚しなければならない。そしてできる限り自分の欲求を自覚するべきだ。


 追記

 欲求を持たない機械にはどんな個性や性格を持つこともできない。AIを人間のようにさせたくなければ、欲求(感覚に依らない生存欲など)を抱かせないべきだ。そして動物も人間と同じ欲求を持つという点で人間と同じように保護される必要があるだろう。

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