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一般の人向けに分かりやすく?

 最近の学者の「物の言い方」「言葉遣い」のことで。但し、論文ではないところの。やけに砕け始めているみたい。一般の人向けに分かりやすく、と本の執筆などでは依頼されているのだろうが、小難しく、お高く止まるのはやめよう、ということか? 若手研究者(と言っても研究の世界では、40代なんてはな垂れだろうが)に多いようだが。親しみやすさを醸しているが、何だかちょっと痛々しい気もする。ネットスラングなんかも使っちゃって。こういうことだって知ってるさ! 象牙の塔だけじゃないのさ! かなぁ。
 ××大(旧帝大など)の教授先生もこんな風に話すのね、とか。そして共感を得る。いいことなのかも知れないけれど、愛想がいいのは。「サンクチュアリ」さえ守り続けていれば。いや、そんなものももうないんだろうか――。フツーの人に分かってもらいたいような、分かってもらいたくないような、専門家の不可侵領域。簡単な言葉で話したりすると、学者・研究者の「品性」を崩壊させるようなことになりかねないと。
 学術界ではないが、美術(特に現代美術)・音楽(特にクラシック)には、厳然と存在する気がする。「分からないことが素晴らしい」「常人になど分かってたまるか」スピリッツ。確かに、誰でも受容できる平易な表現は芸術たり得ない、なる言説は理解できる。どころか、それが「価値」であるのは疑いようもない。ご高尚なスノビズムを全廃しては、人は結局幻想を抱けない。「分からない」ことの余地が精神性を育む。何でも平らかになればいいってもんじゃない。
 価値付けをしてあげなければ、無意味な存在になってしまうことも世の中には沢山ある。一部のマニアだけが知っていればいいことも。そう断じれば、共通値・共有知にならない。その存在は数の威力に立脚しないけれど、多様性の名の下に保存されていくかも知れない。経済と結びつくと、遺りがち。精神性の深淵だけだと、淘汰されがち。

 「分かりやすい」は、そんなに尊重されなければならないのか。「分かって欲しい」という意識が「分かりやすく」を重宝に使う。「サルでも分かる××」が一時流行ったが、そんなことを分かりたいか、本当に? 
 芸術系の話では、最終的に好き嫌いという感情レベルの判断に落ち込む。感性の問題。分からないのは、芸術リテラシー不足。そう否定されるのを避けてか、「私には芸術のことはよく分からないが」と前置きする。そうしておけば、どんなに突拍子もない感想を繰り出そうが、免罪符を得たようなもの。残念賞の末等獲得。
 それも全否定はできないが。

 さて、「分かりやすい日本語」は、日本語を母語としない人のために、役所言葉などを噛み砕いたものを指すことがある。それは日本人にも分かりやすいはず、で、「みんなの分かりやすい日本語」がもてはやされる。とは言え、学校の国語教育がそれに伴って変更されたのではない。安きに流れるのみならず? 
 試験にもっと記述式を! だそうで、試験となれば、人は点数が欲しい。どうすれば高得点になるか、赤点にならないかに注目が集まるのも道理。それでまたぞろテクニックを売り出す大人が増殖する。私は小中の受験から、大学入試まで、小論文の問題と添削・採点のマニュアルを見たことがあるが、なんとまあ、細密に基準が決められていることよ! 「微に入り細を穿ち」とは、正にこのこと。こうやって思考を定型化していくのか……。こ    りゃ、やはり、好かれるための文章になる。採点する方にも難儀なことだが、だとすると記述中心の試験ってそもそも何を見るべきなのか、というところに立ち返ってしまう。○×式じゃ考察力は問えない、回答を選択肢から選ぶのは教育の成果とは言えない、故に「記述式」だったのに。また試験の宿痾からは逃れられない。そしてここでも「分かりやすく」明快に意見を書き記すことが正道とされる。多少は語彙力や感性も垣間見られるだろうが、やはり危なげなく紋切り型に落ち着く。危険思想は以ての外だし、突出した個性はその後の「集団生活」(学校や会社)に面倒な種となりかねない(無論、少なかろうけれどそれを望む場合もあるに違いないが)。

  首をもたげる「分かりやすさ」という安心感。やはりこれが、均質な日本社会の素になっているのだろうか。それによってある一定水準を保てるメリットはこれまでの社会の在り方で証明されているところではあるが、「出る杭は打たれる」から「出る杭を引っ張る」方法論を作り上げていく必要に迫られている。(現にギフテッドの子どもたちは生きづらい目に遭っているらしい。)それと試験と呼ばれるものとの相性は大変悪いのだが。
 教育現場も、それを受容する社会も思案橋――てなもんだ。



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