JW100 四代目即位
【懿徳天皇編】エピソード1 四代目即位
紀元前511年、皇紀150年(安寧天皇38)12月6日、三代目天皇、安寧天皇(あんねいてんのう)が崩御(ほうぎょ)した。
崩御とは天皇が亡くなることである。
そして、翌年の紀元前510年、皇紀151年(懿徳天皇元)2月4日、息子の大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとも・のみこと)(以下、スッキー)が、新たな大王(おおきみ)となったのであった。
ここで、申食国政大夫(おすくにのまつりごともうすまちぎみ)の磯城葉江(しきの・はえ)と物部出雲色(もののべ・の・いずものしこ)(以下、イズモ)が解説を始めた。
葉江(はえ)「では、大王の諡(おくりな)について、説明致しましょう。」
スッキー「即位したばかりというに、諡の解説から始まるのか?」
葉江(はえ)「読者のみなさまに名前を覚えてもらうには、そうした方が良いと思いますよ。」
スッキー「な・・・なるほど・・・。」
イズモ「ではまず、国風諡号(こくふうしごう)から紹介するでっ! こっちは、大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとも・のみこと)やねん。」
スッキー「冒頭で語られている名前じゃが・・・。」
イズモ「本名が分かってへんから、仕方ないねん。」
葉江(はえ)「では、次に中国風である、漢風諡号(かんふうしごう)を紹介致しましょう。こちらは懿徳天皇(いとくてんのう)ですよ。」
スッキー「二千年後は、漢風諡号の方が一般的になっているようじゃな?」
イズモ「せやでっ! 国風は長いんで、書くのもメンドくさい。覚えるのもメンドくさい。読むのもメンドくさい。せやから、漢風が一般的になったんやろなぁ。」
スッキー「め・・・面倒くさい・・・が理由なのか?」
葉江(はえ)「まあまあ、とりあえず、そういうことで、つつがなく即位儀礼が終わりましたね。」
そこに、スッキーの弟、磯城津彦命(しきつひこ・のみこと)(以下、シキ)がやって来た。
シキ「兄上・・・もとい、大王! つつがなく終わりませぬぞ!」
葉江(はえ)・イズモ「シ・・・シキ様?!」×2
シキ「我(われ)を押しのけて、高御座(たかみくら)に登られた御気分は如何にござる?」
イズモ「ちなみに、高御座っちゅうんわ、玉座(ぎょくざ)のことやでっ!」
スッキー「シキ・・・あの話題を持ち出すのか?」
シキ「兄上・・・。エピソード93で語った、簒奪(さんだつ)の疑いは晴れませぬぞ!」
スッキー「分かった。よぉく、胸に刻んでおこう。」
こうして、作者の陰謀により、つつがなく即位儀礼が終わらなかったのであった。
それから数日後・・・。
スッキー「まさかな・・・。我(われ)に簒奪者(さんだつしゃ)の可能性があるとは・・・。」
そこに、侍臣(おおまちぎみ)の物部大禰(もののべ・の・おおね)と大倭武速持(やまと・の・たけはやもち)(以下、モチ)がやって来た。
大禰(おおね)「大王(おおきみ)っ! 悶々としとっても、しゃあないですよ。」
モチ「そうやに! それよりもやらねばならんことが有るっちゃ!」
スッキー「やらねばならぬこと?」
大禰(おおね)「先代を、そのままにしておくつもりでっか?!」
スッキー「あっ! そうであったな。父上の陵(みささぎ)を造らねば・・・。」
モチ「では、どこに葬られたのか、解説するっちゃ!」
大禰(おおね)「二千年後の奈良県橿原市(かしはらし)は吉田町(よしだちょう)やで!」
モチ「俗称が『阿禰山(あねやま)』という小山といわれているっちゃ。」
スッキー「いわれている?」
大禰(おおね)「実は、1697年、皇紀2357年(元禄10)から、三年かけておこなわれた調査では、ここではなく『真名子山(まなごやま)』が陵と認定されてたんや。そういう理由で『真名子山』の方には、安寧天皇(あんねいてんのう)を祀(まつ)った神社が有るでっ。」
スッキー「父上を祀った神社? 父上だけを祀っておるのか?」
モチ「そうやに。同じ吉田町の垣内(かきうち)という地区に鎮座してるっちゃ。」
大禰(おおね)「せやけど、幕末の調査で『阿禰山』が陵と定められたみたいでな・・・。明治政府も、その見解を受け継いで『阿禰山』の方を管理してるっちゅうわけや。」
スッキー「も・・・もし違っていれば、ただごとでは済まぬぞ!」
モチ「仕方ないっちゃ。どこが、どれだか、全く分からなくなってたんや。」
スッキー「か・・・可哀そうな父上・・・。(´;ω;`)ウッ…。」
大禰(おおね)「安心してください。先代だけやのうて、他の大王も分からなくなってたんで・・・。」
スッキー「はっ? ということは・・・我もか?」
モチ「その通りっちゃ!」
スッキー「な・・・なんということじゃ・・・。」
大禰(おおね)「ちなみに、安寧天皇陵ですが、別名が『畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまの・ひつじさるの・みほといの・えのみささぎ)』と言うんやでっ。覚えておいて、おくんなはれ!」
スッキー「御蔭(みほと)・・・それは、すなわち、オナゴの・・・。」
モチ「ま・・・まあ、とにかく、名前の由来となった『御蔭井』という井戸が、陵の南側に位置する集落に有るっちゃ。」
大禰(おおね)「二千年後は、陵と共に宮内庁が管理してはるでっ。」
こうして、同年8月1日、先代の磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみ・のみこと)こと安寧天皇(あんねいてんのう)は、無事に葬られたのであった。
そして、9月14日頃には、先代の大后(おおきさき)、すなわち、スッキーの母親を皇太后(おおき・おおきさき)と尊んだのであった。
スッキー「初耳じゃ・・・。皇太后などという存在があったのか?」
大禰(おおね)「実は、初代の時も、二代目の時も、皇太后と尊んだ・・・という記事があるんですが、詳しい月日が書かれてなかったんで、割愛してたんですわ。」
スッキー「それで、唐突に登場した感が否めなかったのか・・・。」
モチ「なので、これまでも、先代の大后は、皇太后と呼ばれていたんやに。」
皇太后についての解説は続くのであった。
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