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東京に雪が降った日

 それは東京で雪が降った日だった。
 本職が休みだったので、いつもの通り映画を見たい気分であった。観たい映画は2つに絞られて、それぞれ1日に何度も上映回数のあるものだった。急に皮膚科に行きたかったことも思い出して、早く外へ出なければと思った。しかし気怠さを振り払えぬまま朝を過ごしていた。シャワーを浴びて、簡単に掃除機をかけて洗濯機を回した。久しぶりに大雑把にムダ毛を剃り、脱毛マシーンを当て、疲れてしまって布団へ潜り直して悶々とした。そういえば、来たる神前式(結婚して数年目であるが、今年の春遂に旦那さんの家族と私の家族が面会することができる予定であり、急遽決まった)の打ち合わせや神社への申し込み、ウエディング保険も考えなければならない。私はそうしたことに向き合う代わりにLINEの入っていないスマートフォンで、東京でできる英語の劇のオーディションやワークショップの情報を調べ始めた。英語でのお芝居、東京でもやろうと思えば可能性がないわけではないのだ。元々演劇活動をしていたことに加え、洋画ばかり見ているせいで、俳優業に強い憧れがあった。いつか生活の中心を仕事にしなくても生活できるようになった時、もう一度演技は挑戦しようと思っていた。
 とは言っても私はまず「4月中にエッセイのコンクールに作品を提出する」「毎日必ず、noteでも作品でもいいので一文でも一文字でもMacBookを開いて書く」という目標を立てたばかりであった。旦那さんとは昨日はそれで喧嘩した。彼は私が夜に仕事をすることで疲れ切って体調を崩したり、気が逸れるばかりで目標に向かって努力をしていないというのである。その通りである。しかし、旦那さんのように毎日毎日自分で決めた目標に向かって結果が出なくてもコツコツと努力するような忍耐力は私にはない。そんな努力ができる人間ならそもそも日本の大学入試にも立ち向かうことができたであろう。私は代わりに英語以外の勉強を投げ出しアメリカへ渡った。結果演劇専攻の短大卒を最終学歴にして今日まで生きている。こんなに生きる事自体を面倒くさがっているのに、本職だってフルタイムで昇給や昇進に向かって頑張っているし、ちゃんと働いているし、旦那さんが日本語を読まない為、二人の生活や人生における諸々の書類関係全部私がやっているんだぞ、その上であんたの愚痴も聞いとるんだぞ、生きてるだけで褒めてくれ、親や教師みたいに振る舞うなとキレた。しかも、旦那さんが今の仕事を得るまでしっかりと精神的にもサポートもしてきたのである、夜働くのも借金を作ってしまったのを自力でなんとかしようと思っているからである。譲るつもりはなかった。しかしそんな私でもある程度は反省をして、物書きになりたいのは本当なのだから、言い訳しないで今日も明日も必ず書こうと誓った。
 そんな喧嘩をした翌日にも朝からエネルギー切れ、ようやくネットサーフィンから舞台に立ったり稽古に励む自分の姿を妄想することで元気が出た私は、予定通り皮膚科と映画に向かうことにした。朝、出勤時に旦那さんがプラスチックと燃えるゴミを半分出してくれていたので、玄関に残ったペットボトルとダンボール、先ほど出た埃を加えた残りの燃えるごみを手に取って外へでた。皮膚科へ行ってニキビ対策の塗り薬を処方して貰い、その後映画を2本観て、上映時間の間にカフェで書き物を進め、夜の仕事まで過ごそうと思った。
 予想もしていなかったが、外は雨が降っていた。ゴミ捨て場に寄った後、驚いて傘を取りにマンションの部屋に戻り、そしてそのまま徒歩数分の皮膚科に向かった。ある日大きなニキビが現れて通うことにした皮膚科だったが、予想通り患者は少なく、診察も塗り薬の処方もあっという間に終わった。しかし、気づけば見たかった映画の上映開始時間には間に合わなそうである。それまでカフェで過ごすのも憚られた。実は昨日も旦那さんと口喧嘩をした後、一日カフェと映画館で過ごしたのである。急にカフェ代が惜しくなった。そして薬局を出た瞬間にいきなりお腹も痛くなった。雨の中、顔面蒼白である。気づけば雨は霙のようである。お風呂に入りたいと思った。すぐにマンションに駆け戻ってトイレに飛び込み、腹痛に唸りながら、服を脱いだ。手を洗ったついでに風呂桶を洗い、熱いお湯を溜めはじめて、昨年北海道の知床で買ったハッカの入浴剤をばら撒いた。心臓の高さまで浸かるのは苦手なので、身体を沈めて丁度半身浴ぐらいかなという高さでお湯を止めた。残り五分の一程残っていた文庫の小説を手に、読み終えるまで暫く遣っていた。朝髪を洗ったのに、頭皮も含め全身から汗をかいていた。ミントグリーンの湯が綺麗だった。去年行ったスイスの湖は着色料なんか入っていなくて、近づくと透明なのに、遠くの水は同じぐらい綺麗なミントあるいはエメラルドグリーンに見えたなと思い出した。小説は面白かった。本を読み終えるということは小さな達成感があって良い。
 さて、もう昼も過ぎたがまだ映画は諦めていなかった。しかし、ここで思い立ってウエディング保険の申し込みをした。しかし勧められた保険のパンフレットを持っているのは母である。支払う前に母に再確認してもらおうと、後日払いにして内容を送った。神社を訪れての申し込みに関しても、明日会社のスケジュールと休みを取れるか確認をしてから、調整するとプランナーさんに伝えた。布団でゴロゴロしながらのやりとりである。
 朝に蓬大福とチョコバターサンドウィッチを時間を空けてそれぞれ作業しながら紅茶と合わせて頂いていたが、午後も暫く経ってお腹がすいてきた。寒い日である。ラーメンが食べたくなった。実は昨日から食べたかったが昨日は面倒さの方が優ったのである。家から数分の評価が高いラーメン屋さんに行って、その後映画を観ることにした。外に出ると、雪が降っていた。徒歩数分であったはずなのに道を間違え、しかし人気店なのに昼と夜の間だったからか並ぶ事なくすぐに暖かい店内に入れた。店内奥のカウンターから見る雪と、今日一日太陽がでなかったのに、しっかりと黄昏時の空気の色は綺麗だった。カウンターにはティモシー・シャラメのような柔らかそうな黒髪天然パーマの華奢で小柄な白人女性がいた。髪型こそ違ったが、それこそ去年スイスに帰った友達に雰囲気が似ていたので一瞬懐かしくなった。
 ラーメンは美味しかった。小さな鴨肉は噛むのが大変に感じる程に歯応えがあって、透明で黄金色のスープに手打ち麺が品よく収まっていた。流石評価が高いのも頷けると納得しながら食べた。ネギや貝割れ大根を含む具や麺全て食べ終わってしまうと、きらきらとしたスープと表面に浮く上質な動物性の油がまるでジュエリーのようだった。油と油の間が輝いて、まるで金に加工されたダイアモンドだと感嘆したのである。サイドで小さな魚介のかき揚げ丼も食べていると、まあ急がないととても映画には間に合わない時刻になった。
 ラーメンですっかり満足した私は、そのまま雪のなかマンションへ戻った。映画は観れなかったが、こんな一日も悪くないなと思い直した。これから書き物をして、夜の仕事に向かう。こんな雪の中、バーにお客様は来るのだろうか。来ても来なくても、誠実に自分に与えられた役割を果たして、今夜はぐっすりと寝て、明日の本業に備えようと思った。


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