日向を出港し、椎根津彦を水先案内とした船軍は途中宇佐に立ち寄り、なぜか筑紫の岡水門へ向かいました
【いっしょに〝記紀〟を旅しよう!】第4話 筑紫への巻
速吸之門
日向を出発した神武天皇の船軍が速吸之門(豊予海峡)に至ったとき、珍彦という漁師が小舟に乗って現れました。天皇は珍彦に椎のさおをさしわたして舟に引き入れ椎根津彦という名前を与え水先案内としました(日本書紀訳)。
椎根津彦は水先案内だけでなく、後に大和の天香山の土を採取、兄磯城討伐などでも活躍し、東征メンバーの中で智将的な働きをします。そして論功行賞でも倭直部(後の倭国造)という最高位の恩賞が与えられます。日本書紀には記述がありませんが、古事記には「私は国つ神」を名乗ったことが記されます。
大分市(旧佐賀関町)と愛媛県伊方町 佐多岬の間の豊予海峡は海峡幅がわずか14㌔で潮流が早く、ここで穫れる魚は身が引き締まり油が乗って「関さば」「関あじ」など有名なブランド魚になっていますね。
この地にも〝記紀〟には記されない地元伝承がありました。
神武天皇が東遷の途中ここへ立ち寄られた折、黒砂と真砂の二神が海の底に潜り、大ダコが守護する神剣をとりあげて奉献。神武天皇がその剣を当地に祀ったのが始まりという早吸日女神社。
ランチタイム
菟狭(宇佐)
それから進まれて筑紫の菟狭(宇佐)に着かれた。そこには菟狭国造の祖先 菟狭津彦と菟狭津媛がいて、菟狭の川上に一柱騰宮(どういう建物だったかは諸説有)を造って御馳走申し上げた。この時、勅命によって、この菟狭津媛を従者 中臣氏の遠祖 天種子命にめあわせられた(日本書紀訳)。
※古事記には天種子命の記述はありません。
誤って写真を消してしまったみたいで、画像無しですm(_ _)m
岡水門
日本書紀は11月9日岡水門に到着した。古事記は筑紫の岡田宮に1年おいでになったと記します。
という事で岡湊神社を訪れました。
この辺りは、遠賀川河口で、古くから良港として栄えたところです。
「古事記」では1年おいでになったとありますが、「日本書紀」は11月9日に着いて次の安芸国埃宮に12月27日に到着したと記します。「先代旧事本紀」も「日本書紀」と同じです。その場合、移動を考えると当地に滞在したのは1ヶ月程と考えられます。立ち寄った理由はどれにも書かれていません。
なぜ遠回りになる筑紫へ立ち寄ったかは気になるところですが、あれこれ考えず次へ進みたいと思います。
次回は吉備国(岡山県)へ。お楽しみに〜!
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