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第14話 宇陀② 忍坂大室の巻
神武東征第14話 宇陀その2 忍阪大室の巻
神武天皇が、八十梟帥をどう打ち破れば良いか思い悩んでいたところ、夢に天神が現れて「天香具山の土で平瓦80枚とお神酒を入れる瓶子をつくって天神地祇を祀り、身を清めて呪詛せよ」と告げます。
さっそく椎根津彦と弟猾に天香久山の土を取りに行かせます。
天香久山
大和三山(畝傍山、天香久山、耳成山)の一つ。天から降り来た山とも言われ、香久山の土には霊力・呪力があると信じられていたようです。
現在山頂には国常立神社があり、国之常立神と高龗神が祀られていますが、元は延喜式にある「天香山坐櫛真命神社」(現在の天香山神社)が山頂にあったのではないかとも言われています。
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天香山神社
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椎根津彦と弟猾は無事に土を持ち帰り、平瓦80枚と瓶を作りました。そして丹生の川上で天神地祇を祀ります。
東吉野村の 丹生川上神社(中社)がその地とされています。『日本書紀』は①丹生の川上で天神地祇を祀り、②宇陀川の朝原で飴をつくって誓約をして③丹生の川の魚で占うという順番なのですが、宇陀と東吉野村を行ったり来たりするには距離がありすぎて違和感があります。写本の写し間違いか何かで、本当は②と③が逆なんじゃないかなと思っています。
※誓約 「もしこうなるなら願いは成就するだろう」とあらかじめ宣言して行う占いの一種。
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③の故事を先に書きます。 「酒が入った瓶を丹生の川に沈めて、もし魚が酔って浮かびあがって流れていけば事を成し遂げるだろう」と言われて瓶を沈めた。しばらくすると魚が皆浮き上がり口をパクパク開いた。椎根津彦がそれを報告したと『日本書紀』は記します。
社伝では「夢淵」で沈めて、「魚見石」の碑の辺りで椎根津彦が見届けたようです。
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次に②の故事です。神武天皇は宇陀川の朝原で飴をつくって誓約をします。「沢山の平瓦で水なしに飴をつくろう。もし飴ができれば武器を使わないで天下を平らげることができるだろう」と申された。飴づくりをするとたやすく飴が出来たと記されます。
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誓約で吉と出たので負ける気はしません。まず八十梟帥を国見丘に撃って斬ります。その時に歌った歌が、
伊勢の海の大石に這い回る細螺のように、わが軍勢よ、あの細螺のように丘を這い回って、必ず敵を打ち負かそう。
「伊勢の海」を問題視する説があります。神武天皇は日向を出て、熊野から宇陀に入ったのですから伊勢を知らないのに歌詞にあるのはおかしいと。本当は伊勢から奈良盆地へ入ったのではないかという解釈です。
まず「伊勢」=「三重県の伊勢」と考えるかどうかですね。〝記紀〟は「伊勢国」とは書いていません。もう一つは、神武東征時代から三重県の伊勢が「伊勢」と呼ばれていたかどうか。ちなみに伊勢の神宮・天照大神と関連付けるのは無理があります。『日本書紀』は第11代垂仁天皇の御代、倭姫命に託して天照大神の鎮まる場所を探し、最終的に伊勢国に鎮まったと記しますので時代が違います。
久米歌の歌詞の中の事ですから、日向に「伊勢の海」と呼ばれる場所があったと考えるほうが自然な気がします。例えば宮崎県日向市の〝日向のお伊勢さん〟大御神社辺りとかですね。大石に細螺が這い回るイメージにピッタリです✨
話しがそれました。ストーリーに戻ります。
忍坂の大室
国見丘で勝利をおさめた皇軍は次に計略を用います。道臣命(改名前 日臣命、大伴氏の始祖)に「大久米らを率いて、大室を忍坂邑に造って、酒宴を催し、敵をだまして討ち取れ」と命じます。ここで平瓦(〝かわらけ〟だと思います)80枚の謎がとけました。呪詛した大量の盃はこの計略のためでした。
敵を大勢招き、味方の強者も同席させ酒を振る舞います。道臣命は「酒宴たけなわになったら自分は立って舞おう。お前たちはわが声を聞いたら一斉に敵を刺せ」と大久米らに言います。
首尾よく敵は酔ってしまいました。そこで道臣命の合図と共に一斉に襲いかかり皆殺しにしてしまったのです。このあたりは久米歌で表現されていますが省略します。
忍阪の大室伝承地に行きましたが、何もありませんでした(^_^;)
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次回は兄磯城、そしていよいよラスボス長髄彦との対決です。お楽しみに〜!
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