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よっさんの思い出。

私が卒業した札幌新川高校の校訓は「開拓者たれ」である。いかにも北海道っぽい。フロンティアスピリッツを感じる。この校訓は、会社を興したいまも私のこの胸に刻まれている。


高校3年生のときの担任は吉川先生(仮名)という名前で、通称よっさんだった。よっさんは身長が190cmを超える大柄なおっさんで、当時すでに年齢は50代後半だったかと記憶している。

高校時代の私はサッカー部だったのだが、よっさんはサッカー部の顧問であり、担当教科は世界史だった。




-よっさんとサッカー部

私が所属していた高校のサッカー部は畑森はたけもり先生(仮名)という先生が監督として君臨していて、北海道の公立高校の部活監督としては、当時唯一のサッカー指導者S級ライセンスを保有している先生だった。

畑森先生が持っていたS級ライセンスというのは、Jリーグなどのプロチームをも率いることができる資格で、日本サッカー界の指導者ライセンスにおける最高峰の資格である。

だから、札幌のいたる地域から畑森先生の指導を仰ごうと入部希望者が殺到し、公立高校サッカー部としては大所帯の「90名」を超える部員がいた。



よっさんはサッカー部のコーチだったんだけど、指導は前時代的なスポ根系だった。腰にロープをくくりつけてタイヤをひかせる。しかも大雪の中を。

「おれが他校を率いてたときはもっと厳しかったんだぞ」と、モゴモゴしゃべるのだが、畑森監督のロジックの効いた指導方針とはあまりに差があり、よっさんの指導は部員からは不評だった。

よっさんがどんなに一生懸命に根性論をたれたところで部員たちは私も含め、納得をしない。言うこともどこか絶妙にマトが外れており、よっさんの話を真面目に聞く部員などいなかった。



-よっさんと修学旅行

高校3年生のときの修学旅行は、東京と大阪に行くのが札幌の公立高校のならわしで、私たちも例に漏れず東京・大阪観光を楽しんだ。

東京都内のどこかのホテルで過ごした夜、サッカー部のメンバーを中心にして部屋で談笑していると、ドアがどかんと開いた。

だれかと思って見ると、よっさんだった。


部活ではいつも厳しく、どこかマト外れなことを言ってくるよっさんは、私たちクラスの担任の先生でもあったから、部屋の様子でも見にきたのだろう。

「お前ら、東京はどうだ?」と聞いてくるので「まぁ、楽しいっす」なんて返事をする。よっさんがどこの出身で、どんな経歴で、どんな人生を歩んで私たちの担任をしているのかなんて、だれも興味がなかった。

「明日はどこに行くんだ?」と言われたので「渋谷っす」と答える。北海道のおのぼりさんだ。

「ほぉ〜渋谷か」とよっさんが言う。


「渋谷はなぁ、高校のときの俺のナワバリだからなぁ」

と言ってきたので、私たちは「え?」と聞き返す。よっさんはニヤリとしていて、色々と教えてくれた。

よっさんはもともと帝京高校ボクシング部の出身らしい。しかも国体選手だったんだとか。たしかに身長は190cmを超えていて、体格も丸太のように分厚い。

たぶん渋谷をシメてる不良だったんだろう。そんな話を聞くと、よっさんの髪の毛もリーゼントに見えてきて、私たちサッカー部のよっさんを見る目は、高校生活3年目にして変わった。



-よっさんとフィギュアスケート

修学旅行から戻ると3年生は部活を引退し、本格的な受験シーズンに入る。

ある日の放課後、教室の掃除当番になった私は、床の掃き掃除をしながら、当時流行のフィギュアスケートに感化され、

「吉川先生、見ててください。今からストレートラインステップシークエンスを踊りますんで!」

と言ってみた。「ほう、やってみろ」と言われたので、他の生徒も見守る中、私は渾身のストレートラインステップシークエンスを踊った。浅田真央や高橋大輔が得意だったやつだ。


クルクル回りながらストレートラインステップシークエンスを踊る私を、よっさんが腕を組んで見つめる。よし、もう少しでこのシークエンスも終わりだ! と思って進むと、あまりにクルクルしすぎたせいか、椅子と机をなぎ倒し、私は片手を天に向かって伸ばしながらズッコケた。


ハァハァ、と息切れしながらよっさんを見てみると「イトー、お前はなにをやってるんだ」と苦笑いしていて、よっさんも苦笑いをするのだな、と新たな発見。



-よっさんと卒業式

高校の卒業式の日、すべての式典が終わってそれぞれのクラスに戻る。

私がいたのは3年4組だったが、思い思いの高校生活を終えて、次の大学というステージに進むにあたり、それぞれにヒキコモゴモ。

卒業生を送り出す、というのはきっと担任の先生にとっても一大イベントであるようで、シンとする教室、みんなの視線には黒板の前に立つ190cm超えのよっさん。頭はやっぱりリーゼントに見える。

「えへん」と言って神妙な面持ちをするよっさんが、何を言うかと思ったら、よっさんは「俺からお前らに伝えたいのはひとつだけだ」と言う。

学ラン姿の私は「あ、ひと言だけなんだな」と思って、何を言ってくるんだろう、と楽しみだった。


「いいか、お前ら。どんな時も”前へ”だ。とにかく”前へ”。お前らいいか、”前へ”進め! “前へ”!」


よっさんがそう言って「以上! 解散!」と叫び、私たちの卒業式は終わった。

終わった後に、よっさんの「前へ!」をモノマネして笑いを誘う生徒もいた。私はとりあえず「……前へ、かぁ〜」と思っていたような気がする。



-よっさんと私

高校卒業からしばらくが経過し「よっさんが死んだ」という話がサッカー部の連絡網で回ってきた。

今からもう7年前くらいだった気がする。よっさんは教師を定年退職して、やっとこれから奥さんと楽しい老後生活、その矢先の末期がんだったとのことだ。

訃報ふほうの連絡がきたときは「あのよっさんでも死んでしまうのか」と、みんなで悲しみに暮れ、サッカー部みんなで献花を贈った。



私が卒業した札幌新川高校の校訓は「開拓者たれ」である。いかにも北海道っぽい。フロンティアスピリッツってやつを感じる。この校訓は、会社を興したいまも私のこの胸に刻まれている。

同時に、卒業式の日によっさんが叫んだ「前へ」も同じレベルでこの胸に刻まれている。だって、今日に至るまで忘れていないんだから。

教室中のほとんどの生徒が「なに言ってんだ、よっさん」と思う中、サッカー部の面々は受け取り方がちょっと違ったようだ。

今でもサッカー部で集まると、

「よっさんは”前へ”って言ってたよな。
 いまの俺たちはどうだ?」

なんて話をして「しかし、よっさん、死ぬのが早すぎるよな」と、みんなで残念がる。


そんな思い出。


<あとがき>
1年生のとき、よっさんが何かを言うたびに部員みんなでニヤニヤしながら話を聞いていました。たぶん、よっさんもそれをわかっていたんじゃないかな、と思います。よっさんが死んだ、と聞いたときはまさに青天の霹靂で、いのいちばんに思い出したのは「前へ」という言葉と、あのときのストレートラインステップの苦笑いでした。今日も最後までありがとうございました。

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