文章ごときで人を評価できない。
このSNS社会で私たちは虚構を作り上げていると思う。noteにおいては書き手も読み手も虚構を作っている。
読み手は、誰かの文章から漂ってくる雰囲気から、虚構の人物像を勝手に作り上げている。
書き手は、意図してかせずか、そう思われたいであろう理想の人物像に読み手を誘導すべく、虚構の自分を作っている。
イメージ作りだ。
ある人の文章がうまかったとする。
すばらしい比喩表現。ズバッとした文体。
豊富な語彙。日々の生活で感じたこと。
誰かの文章を読むと「文章を書く」ということだけがうまいのに、きっとこの人はこういう人に違いない、とイメージを膨らませる。
こういう表現をしているということは、こういう経験があるということは、きっとこういう生活をしているだろう、こういう背格好だろう、こんな顔だろう。
すべて想像。
キツイ物言いをしている人は、おそらく現実世界でも攻撃的な人間であろう、という推測をしてしまう。逆に聖人のような物言いをしてくる人であれば、さぞかし人間的にできた人に違いない、と思ってしまう。
すべて想像。
会ったことも喋ったこともないのに、たかだかnoteの文章からその人の人格まで決定してしまう。
すべて想像。
noteで素晴らしい文章を書く人が、現実世界ではポイ捨てをしているかもしれないじゃないか。逆にキツい文章を書く人が、道端の猫にミルクをあげているかもしれないぞ。
文章はたしかにひとつの判断材料にはなるが、でも文章ごときで、その人の本当の姿までは判断できない。というか、人は自分でも本当の自分がわからない。ラベルを貼っているだけだ。
ある一側面を見て、その人の他の面を推測しないようにしたい。文章が上手だという事実は事実として見ておきたい。むずかしいが。
耳の聴こえない人がいたとしたら、耳が聴こえないという事実だけを拾って、何も変わらない接し方をするような人物でありたい。むずかしいが。
…
何が言いたいかというと、たかが文章である。
人格まで決まるわけではない。
楽しかったこと、悲しかったこと、恥ずかしかったこと、ムカついたことをなんの気兼ねもなく書けたらな、と思うのである。イメージなんてどうでもいい。
文章ごときで人を評価できないと思うのだ。
こう書いている自分が、
一番イメージ作りに必死なんだけどね。
必死よ。
なにがやりたいのやらだ。ふふふ。
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