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伊賀鉄
2020年8月25日 01:04
このシリーズも今回で最終回です。写真は、①の写真にある赤門の東側に構える「御成門(おなりもん)」。赤門と並び、伊賀にお越しの際一度は目にしたことがある建物ではないでしょうか。この御成門は創建当初現在の位置ではなく、講堂(崇廣堂)の東側にあり、お城の西外堀に沿った上級武士の役宅にほど近い場所に建てられていました。講堂とともに文政4年(1821年)の建築で、薬医門(鎌倉時代の古建築で、矢の攻撃を食い
2020年8月18日 00:37
このシリーズも3回目を迎えました。いつもお読みいただきありがとうございます。今回は、崇廣堂の文教場となる講堂についてご紹介します。写真は、講堂から庭園に向けて撮影したものです。 講堂は、現在の崇廣堂の配置図では、「御成門(おなりもん:藩主が臨校した際に使用される来賓門)」から「勾玉池(まがたまいけ)」を右手に見て、その奥に構える建物で、前回ご紹介した米沢藩主 上杉治憲(号:鷹山)が書いた扁額
2020年8月11日 00:44
前回①では「崇廣堂」を創設した津藩(安濃津藩)藩主で稀世の名君と謳われた「藤堂高兌(とうどうたかさわ)」をご紹介しました。第2回目からは、崇廣堂そのものに迫っていきたいと思います。 さて、そもそも「崇廣」とはどういう意味でしょうか?気高い、尊いといった意味で捉えられ、太宰治の小説「東京だより」にも出てきます。この崇廣堂の名は、中国の書経(しょきょう:儒教の経典である五経の一つ)周官(しゅうか
2020年8月4日 00:38
今回ご紹介しますのは、以前お送りした記事でも少しだけ取り上げました「国史跡 崇廣堂(すうこうどう)」です。写真は、玄関口にあります「赤門」。私たち地元民では、崇廣堂というよりか「赤門」と呼ぶことが多いですね。 まずは、ざっくり「崇廣堂」をご紹介したいと思います。場所的には、伊賀上野城の西大手門に近く、城内にあった武家屋敷の並びに設けられました。時は文政4年(1821年)、伊賀を治めていた伊勢