伊賀鉄

初めまして、伊賀鉄と申します!三重県伊賀市で生まれ、育ち、現在も暮らし続けている中年男…

伊賀鉄

初めまして、伊賀鉄と申します!三重県伊賀市で生まれ、育ち、現在も暮らし続けている中年男性です!!『伊賀鉄』というネーミングは、もちろん伊賀市の伊賀と、鉄はこよなく鉄道を愛する『鉄』であります!!! 少々鉄分が多めではありますが、一つよろしくお願いいたします!!!!

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  • 伊賀鉄道(忍者線)

    100年以上伊賀市内を走り続ける伊賀鉄道の各駅とその風景を合わせてご紹介していきます。

  • 上野町

    みなさんに上野町(伊賀市)をご紹介いたしたく開設しました。どうぞよろしくお願いします🏯

最近の記事

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伊賀鉄道猪田道駅ー市部駅ー依那古駅

伊賀鉄道200系忍者列車ほか、織田道から依那古駅間での走行風景です。

伊賀鉄道猪田道駅ー市部駅ー依那古駅

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  • 伊賀鉄道(忍者線)
    8本
  • 上野町
    37本

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    伊賀鉄道 茅町駅〜四十九駅

    伊賀鉄道(忍者線)、桜が咲く季節に収録した茅町駅から四十九駅間の忍者列車の走行風景です。

    伊賀鉄道 茅町駅〜四十九駅

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    伊賀鉄道をご紹介します!

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    関西本線・三岐鉄道の風景機関車交換、継走、通過など

    富田駅で見られるDF200からED45などへのタキ継走、DF 200のコンテナ、単機の走行風景を収録しています。

    関西本線・三岐鉄道の風景機関車交換、継走、通過など

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    伊賀鉄道上野市駅(忍者市駅)〜広小路駅

    伊賀鉄道の忍者列車などの走行シーンや駅での行き違い場面を収録しています。今回は、第1弾上野市駅(忍者市駅)〜広小路駅間です。わずか500メートルの距離を電車は、車輪を軋ませながら家や建物の間を縫うようにして走ります。

    伊賀鉄道上野市駅(忍者市駅)〜広小路駅

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    伊賀鉄道(忍者線)をご紹介します!

    伊賀鉄道(忍者線)をご紹介します!

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    赤門 国史跡「崇廣堂」 ④

     このシリーズも今回で最終回です。写真は、①の写真にある赤門の東側に構える「御成門(おなりもん)」。赤門と並び、伊賀にお越しの際一度は目にしたことがある建物ではないでしょうか。この御成門は創建当初現在の位置ではなく、講堂(崇廣堂)の東側にあり、お城の西外堀に沿った上級武士の役宅にほど近い場所に建てられていました。講堂とともに文政4年(1821年)の建築で、薬医門(鎌倉時代の古建築で、矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」から来たものとも、医者宅の門として使われていたとも・・

    赤門 国史跡「崇廣堂」 ④

    赤門 国史跡「崇廣堂」 ③

     このシリーズも3回目を迎えました。いつもお読みいただきありがとうございます。今回は、崇廣堂の文教場となる講堂についてご紹介します。写真は、講堂から庭園に向けて撮影したものです。  講堂は、現在の崇廣堂の配置図では、「御成門(おなりもん:藩主が臨校した際に使用される来賓門)」から「勾玉池(まがたまいけ)」を右手に見て、その奥に構える建物で、前回ご紹介した米沢藩主 上杉治憲(号:鷹山)が書いた扁額「崇廣堂」が正面に掛けられています。  創建は、文政4年(1821年)の頃(伊

    赤門 国史跡「崇廣堂」 ③

    赤門 国史跡「崇廣堂」 ②

     前回①では「崇廣堂」を創設した津藩(安濃津藩)藩主で稀世の名君と謳われた「藤堂高兌(とうどうたかさわ)」をご紹介しました。第2回目からは、崇廣堂そのものに迫っていきたいと思います。  さて、そもそも「崇廣」とはどういう意味でしょうか?気高い、尊いといった意味で捉えられ、太宰治の小説「東京だより」にも出てきます。この崇廣堂の名は、中国の書経(しょきょう:儒教の経典である五経の一つ)周官(しゅうかん:中国の礼に関する3種の古典で、理想の官制を記した行政法典)の一節から引用した

    赤門 国史跡「崇廣堂」 ②

    赤門 国史跡「崇廣堂」 ①

     今回ご紹介しますのは、以前お送りした記事でも少しだけ取り上げました「国史跡 崇廣堂(すうこうどう)」です。写真は、玄関口にあります「赤門」。私たち地元民では、崇廣堂というよりか「赤門」と呼ぶことが多いですね。  まずは、ざっくり「崇廣堂」をご紹介したいと思います。場所的には、伊賀上野城の西大手門に近く、城内にあった武家屋敷の並びに設けられました。時は文政4年(1821年)、伊賀を治めていた伊勢の国津藩(安濃津藩)第10代藩主 藤堂高兌(とうどうたかさわ)が藩校の「有造館」

    赤門 国史跡「崇廣堂」 ①

    伊賀流上忍 百地丹波守の話 ③

     このお話も今回が最後となります。上の写真は、百地氏の菩提寺である青雲寺(伊賀市喰代)にある同氏の暮石。青雲寺は、永保寺と並び喰代の百地城(砦)に隣接し、いずれも無住の寺で、境内は静寂に満ちています。  さて、みなさん「百地三太夫(ももちさんだゆう)」という名前をご存知でしょうか。百地丹波守と同一人物であるとの説もありますが、江戸時代に読本に登場する武士であり、忍者とする物語上の人物とする説もありまして、本当のところはよくわかりません。さらに「石川五右衛門(いしかわごえもん

    伊賀流上忍 百地丹波守の話 ③

    伊賀流上忍 百地丹波守の話 ②

     お待たせしました、前回の引き続き第2話にいきます。前回、お題にもある百地丹波守をご紹介しましたが、この伊賀市喰代(いがしほうじろ)にある百地城(百地砦)のほど近くに「南都女官式部之塚(なんとにょかんしきぶのつか)」があります。  かの百地伝説を紐解くとこうあります。南都(南朝の時代、都があった奈良県吉野)の頃、百地丹波守は北面の武士として吉野朝(南都、南朝)に出仕、宮廷の守護を任務としていました。そのときに出会った式部の官(律令制太政官八省のうちの式部省の官)の女性と恋に

    伊賀流上忍 百地丹波守の話 ②

    伊賀流上忍 百地丹波守の話①

     少し志向を変えまして、またシリーズ物をお届けします。伊賀といえばみなさん何を思い浮かべますでしょうか? でんがく、かた焼き、丁稚ようかん、伊賀牛・・・・・  食べ物の他にはいかがでしょうか?お城、松尾芭蕉、そして忍者・・ その忍者で有名なのは服部半蔵ですが、この服部半蔵と同じ「上忍」と呼ばれた一人として、今回取り上げました「百地丹波守(ももちたんばのかみ)」がいます。忍者は「上忍・中忍・下忍」の階級に分かれ、上忍のもう一人は藤林長門守です。伊賀市喰代(ほうじろ)に、こ

    伊賀流上忍 百地丹波守の話①