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赤門 国史跡「崇廣堂」 ②

 前回①では「崇廣堂」を創設した津藩(安濃津藩)藩主で稀世の名君と謳われた「藤堂高兌(とうどうたかさわ)」をご紹介しました。第2回目からは、崇廣堂そのものに迫っていきたいと思います。

 さて、そもそも「崇廣」とはどういう意味でしょうか?気高い、尊いといった意味で捉えられ、太宰治の小説「東京だより」にも出てきます。この崇廣堂の名は、中国の書経(しょきょう:儒教の経典である五経の一つ)周官(しゅうかん:中国の礼に関する3種の古典で、理想の官制を記した行政法典)の一節から引用したもので、成功の志し、業の廣きを志し勤むの意味を持つものと解釈されます。

 写真右奥に見えるのが講堂で、藩士子弟達の学び舎なるものですが、屋根の下にかかる扁額(横に長い額)に「崇廣堂」と書かれています。この書は、米沢藩主の上杉治憲(号は鷹山(ようざん))のもので、高兌が懇請して書いてもらったとされています。よほど大切にされていたものらしく、2名の額守が配されていたそうです。

 崇廣堂は、文政4年(1821年)に創建されましたが、嘉永7年(1854年)の安政の伊賀地震で講堂を除く多くの建物が倒壊。しかし、現存する建物の多くは創建当時のまま、現世まで生き残っています。

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