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伊賀流上忍 百地丹波守の話①

 少し志向を変えまして、またシリーズ物をお届けします。伊賀といえばみなさん何を思い浮かべますでしょうか?

でんがく、かた焼き、丁稚ようかん、伊賀牛・・・・・

 食べ物の他にはいかがでしょうか?お城、松尾芭蕉、そして忍者・・

その忍者で有名なのは服部半蔵ですが、この服部半蔵と同じ「上忍」と呼ばれた一人として、今回取り上げました「百地丹波守(ももちたんばのかみ)」がいます。忍者は「上忍・中忍・下忍」の階級に分かれ、上忍のもう一人は藤林長門守です。伊賀市喰代(ほうじろ)に、この百地丹波守が築いた百地氏の城の一部「百地砦(ももちとりで)跡」があります。百地城は、東西約250m、南北約60m伊賀市内に残る城跡としても有数の規模を誇ります。

 百地氏の由来はよくわかってはいないのですが、織田信長の時代の有力は土豪で、この伊賀南部喰代の地を拠点に勢力を強めていました。歴史の教科書にある「天正伊賀の乱」、まず1回目(1579年)に百地氏は織田信長の次男「織田信雄(おだのぶかつ)」率いる軍勢を山岳戦で打ち破りますが、2回目(1581年)織田信長の軍勢に敗れ、城は落城。百地氏はその後紀州高野山に落ち延びたと言われますが、定かではありません。

 先ほど上忍の一人として書きました藤林長門守ですが、百地家の過去帳を見ると、現在この藤林氏と同一人物ではなかったか・・・との説が有力となっています。

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