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赤門 国史跡「崇廣堂」 ④

 このシリーズも今回で最終回です。写真は、①の写真にある赤門の東側に構える「御成門(おなりもん)」。赤門と並び、伊賀にお越しの際一度は目にしたことがある建物ではないでしょうか。この御成門は創建当初現在の位置ではなく、講堂(崇廣堂)の東側にあり、お城の西外堀に沿った上級武士の役宅にほど近い場所に建てられていました。講堂とともに文政4年(1821年)の建築で、薬医門(鎌倉時代の古建築で、矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」から来たものとも、医者宅の門として使われていたとも・・)の形式をとっています。

 前回もご紹介しましたが、御成門は藩主臨校の折に使用されたいわゆる「来賓門」で、各藩主は門をくぐり、講堂の前を通って専用の「小玄関(御成玄関)」から講堂横の西廊下を経て、北控所で休息後、講堂で学ぶ藩士子弟の姿を見聞したものと考えられています。

 では、締めくくりとして、これまた皆さんもよくご存知の「武将藤堂高虎」を少しご紹介したいと思います。生まれは近江国(現在の滋賀県)藤堂村で、土豪 藤堂虎高の二男として弘治2年(1556年)に誕生しました。戦国時代、浅井氏、織田氏、豊富氏、そして徳川氏など次々に主君を変え、初代伊勢津藩(安濃津藩)主となった苦労人で、加藤清正と名を連ねる築城の名手でもあります。特徴は石垣を高く積み上げる「高石垣」で、伊賀上野城の他、二条城、今治城、宇和島城などを手掛けました。

 がたいは大きく、身長は6尺2寸(約190センチ)。戦乱の世で、身体は弾傷や槍傷で溢れ、右手の薬指と小指はちぎれてなかったと言われています。人情に厚く、家臣が暇を願い出れば茶をもてなし、刀を与え、いつでも帰ってくるようにと見送り、その者が帰って来れば快く迎え入れました。その高虎ですが、若き日主君の先から出奔し浪人生活を送っていた頃、三河吉田宿(現在の豊橋市)の餅屋で三河餅を無銭飲食。しかし、その後出世し参勤交代で立ち寄った際、餅代を支払ったとの話が伝えられています。

 最後に高虎が嫡子に残した遺言をご紹介します。「仁義礼智信の一つでも欠ければ諸々の道は成就しがたい」、人の上に立つものは五徳が不可欠であると。苦労人であるからこその言葉と感じ入ったしだいでありました。

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