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赤門 国史跡「崇廣堂」 ③

 このシリーズも3回目を迎えました。いつもお読みいただきありがとうございます。今回は、崇廣堂の文教場となる講堂についてご紹介します。写真は、講堂から庭園に向けて撮影したものです。

 講堂は、現在の崇廣堂の配置図では、「御成門(おなりもん:藩主が臨校した際に使用される来賓門)」から「勾玉池(まがたまいけ)」を右手に見て、その奥に構える建物で、前回ご紹介した米沢藩主 上杉治憲(号:鷹山)が書いた扁額「崇廣堂」が正面に掛けられています。

 創建は、文政4年(1821年)の頃(伊能忠敬が中心となり、初の日本の実測地図「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」を製作した年です)で、そのまま現在まで藩校の面影を残しています。

 以前の記事でも触れましたが、伊勢津(安濃津)藩の領地であった伊賀、山城、大和に住む藩士の子弟が通った学校で、講堂で行われた文教のほか、現存しませんが、建物西方(現在の伊賀市立崇高中学校付近)には武場が設けられていて、馬術や槍術、柔術などの各流儀・流派の練武場、兵学寮があったそうです。当時の敷地面積は2.635坪(8710.744平方メートル)もありました。

 講堂は、明治維新を迎え廃藩置県の後、三重県の前身である「安濃津県」となって藩校は廃止。学制発布(明治5年:1872年)後は、村立上野学校、町立丸之内尋常小学校に、明治38年(1905年)からは、阿山郡立図書館、上野市(伊賀市の前身)発足後市立図書館となり、昭和58年(1983年)まで現役で使用されていました。筆者も当時足しげく通い、探検と称して立ち入り禁止の奥の奥まで忍び込んだものでした。

 

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