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伊賀流上忍 百地丹波守の話 ②

 お待たせしました、前回の引き続き第2話にいきます。前回、お題にもある百地丹波守をご紹介しましたが、この伊賀市喰代(いがしほうじろ)にある百地城(百地砦)のほど近くに「南都女官式部之塚(なんとにょかんしきぶのつか)」があります。

 かの百地伝説を紐解くとこうあります。南都(南朝の時代、都があった奈良県吉野)の頃、百地丹波守は北面の武士として吉野朝(南都、南朝)に出仕、宮廷の守護を任務としていました。そのときに出会った式部の官(律令制太政官八省のうちの式部省の官)の女性と恋に落ちます。2人は将来を誓い合い、丹波守が出仕を終えて喰代に帰った後、この女官も後を追う手筈となっていました。

 丹波守が喰代に戻り、女官も宮仕えを終え、丹波守は途中島ヶ原(伊賀市島ヶ原)まで迎えに行きましたが、行き違いとなり、女官は愛犬の白犬とともに喰代に入ったのです。かねてからその存在を知っていた丹波守の女房は、家来と結託。女官を邸宅の井戸に投げ込み殺害しました。そして女房も後を追って井戸に飛び込んだのです。丹波守はそれを知った後、この井戸を埋め樒(しきみ)を供え、塚としました。

 との伝説からこの塚を「式部之塚」または「樒之塚」と呼ぶようになりました。

 さて、写真の下の方に色とりどりのハサミがあるのがわかりますでしょうか?先の伝説からこの塚を「縁切り(悪縁を切る)」の塚として、いつしか縁切りの象徴であるハサミが供えられるようになりました。縁切りは、京都府東山の「安井金比羅宮」が有名ですが、伊賀にもあったのです。

 終わりに、丹波守はその後高野山に登り僧となって、女官と女房を弔ったと伝えられています。

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