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赤門 国史跡「崇廣堂」 ①

 今回ご紹介しますのは、以前お送りした記事でも少しだけ取り上げました「国史跡 崇廣堂(すうこうどう)」です。写真は、玄関口にあります「赤門」。私たち地元民では、崇廣堂というよりか「赤門」と呼ぶことが多いですね。

 まずは、ざっくり「崇廣堂」をご紹介したいと思います。場所的には、伊賀上野城の西大手門に近く、城内にあった武家屋敷の並びに設けられました。時は文政4年(1821年)、伊賀を治めていた伊勢の国津藩(安濃津藩)第10代藩主 藤堂高兌(とうどうたかさわ)が藩校の「有造館」の支校として建築したのが始まりです。

 さて、この藤堂高兌と人ですが、江戸時代後期の名君の一人に数えられています。元は伊勢久居(ひさい)藩の第12代藩主。寛政7年(1795年)には当時の将軍「徳川家斉(とくがわいえなり)」に御目見(おめみえ)、その後お国入りします。津藩藩主に転任したのは文化3年(1806年)。高兌を一役有名にしたのは、綿服を常に着用し、質素倹約して貯金。生活費を切り詰め、10年で1000両を貯めたことです。そして、藩政改革として法令の整備のほか、行政機構の改善とこの藩校「有造館」の創設でした。後に今回の主題である「崇廣堂」を伊賀の地に造り、藩士の子弟はもちろん、領民にも教育の奨励を促したとされています。高兌は教養人、文化人としても優れていて、国学や兵法、武術、洋学、医学、西洋数学も取り入れていきました。

 と、まずは崇廣堂を創設した人物を紹介しましたが、次回からはこの崇廣堂の中身を見ていきます。

 

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